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ひろば

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すみコラム 
 第6回 心と体を開放して遊ぶ(前編)
 第7回 心と体を開放して遊ぶ(中編)
 第8回 心と体を開放して遊ぶ(後編)

みんなの・・・

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 すみコラム 第6回 わんぱくクラブの保育を振り返って
   体と心を解放して遊ぶ 〜ごっこ遊びや劇遊びを通して〜(前編)
(2015.09 近藤すみ子)
 
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   人が変わる瞬間に立ち会える喜び(2011.08)   私とわんぱくクラブ(2009.05)


全国障害者問題研究会(全障研)第49回全国大会にて

 「劇団・ドキドキわくわく」は、岐阜市とその近郊に生活する知的障害や自閉性障害のある若者たちの「愛と性」をテーマとする演劇集団です。「みんなのねがい」(全障研の機関紙)の7月号でこの劇団の記事を見ました。全国大会でその舞台が見られるという。行くしかないと思いました。期待通り素晴らしい舞台でした。劇の始まりに青年が歌った、さだまさしの「いのちの理由」という歌が象徴的でした。彼らの素直な言葉がセリフになり、みんなで協力してお芝居が成り立っていました。彼らの劇には、芸術と文化の香りがしました。

 仲間たちは学校でも職場でも異性には必要以上に近づかないようにと教えられてきていました。好きな人と手をつなぎたいと思うことにさえ罪悪感を植え付けられてしまっていた仲間たちの身体と心はとても硬いものでした。それでも、演目が新しくなるたびに、「指切りをする」「手をつなぐ」「抱き合う」場面を段階的にロールプレイする経験を積み、またフォークダンスで身体を寄せ合うこともしばしば体験していくうちに、仲間たちの身体と心は次第にほぐれていきました。(「みんなのねがい」7月号土岐邦彦さんの文章から)

 わんぱくクラブでも、仲間の中に素直に入れなくて困っていた子がいて、ロールプレイをやって、克服した経験がありました。そのことはきっかけであって、周りのスタッフの日ごろの丁寧な働きかけがあったからこそだと思っていますが。それでも、劇というのは心を解放させる力があるのだと思います。  

子どもの遊びの世界

 わんぱくクラブの前身になる世田谷幼稚園学童クラブ時代から、お楽しみ会の出し物などで劇をよくやっていました。学校の学習発表会でやった劇をやりたいという子がいたり、自分で脚本を書いてきて、これをやりたいという子がいたり、実際にちゃんと自分たちだけで劇を完成させるのですから、小学校1年生から3年生までの集団なのにすごいなと子どもの力に感心したものです。

 ごっこ遊びも、男の子中心に、当時はやっていたインベーダーゲームごっこや、ちょっと発展させて宇宙船ごっこなどをよくやっていました。脚本などない即興劇で、リーダーの子が場面設定をして、小道具など何にもないのに、宇宙船が火星に着き、「お前火星人になれ」と言われた子は即座に火星人になり、宇宙船で火星についた地球人は武器を持って戦ったりして、見ていて飽きませんでした。時々、こんな遊びには入れないという子がいて、遊びが盛り上がっている最中に、役を振られて「僕はできない」と真面目に断られ、唖然とするリーダー、でもすぐ立ち直って、今のできごとはなかったかのように続けられる宇宙船ごっこ。ほんとに面白いと思って見ていました。  

遊びを楽しむのは難しい

 わんぱくクラブで障害を持った子ばかりの集団になり、自閉的傾向があったり、重い知的障害があったりする子どもが増えてくると遊びの楽しさを共有するのが難しくなりました。感情を表すことが苦手な子どもたちもいて、楽しくても周りには、楽しんでいるようには見えない。家に帰って楽しかったと言っていたとか、帰り道ニコニコしていたからきっと何か楽しいことがあったのでしょう、と親に聞いて初めて、あれがそうだったのかもしれないと思ったものです。あそびの楽しさを感じるのが難しいことと、楽しいと感じても表現する方法がわからないこと、この課題を克服するために色々なことを考え実践してきました。

 もちろん好きなことを静かに一人で遊ぶことは保障されなければなりません。それは、当然のこととして、人から人へ遊びの文化を伝えるためにどんな実践をしたかを少し述べたいと思います。以前書いた「遊びもみんなと一緒が楽しい」と内容が重なるところがあるのはご容赦ください。

 ダイナミックな、わくわくドキドキする遊びを実現するために、集団でやること、みんなができることを大切にしました。とりわけ、「○○さん以外のみんなは楽しそうだった」というのは、「みんなとは言わない!」ということを繰り返しスタッフに伝えました。だれもが参加できるよう支援するのが私たちの仕事だということを、当時のスタッフたちは身に浸みこませていったと自負しています。

 どんな遊びも、みんなでやればもっと楽しくなるということを、公園あそびなどでも実感できるようになっていきました。印象に残っているのは、世田谷公園での遊びでした。8基あったブランコを占領して、スタッフに背中を押してもらってビュンビュンこぎます。歓声を挙げている子、歌を歌っている子、大声で笑っている子、見ていてもなんとも楽しい風景でした。それが一人下り、二人下りして少なくなると、いつの間にか誰もいなくなってしまいます。そのうち、雲梯に何人も上がり、恐る恐る手をついて渡っている子、歩き始める子、走り始める子もいて、スタッフから「すご〜い!」という声が上がると、私も僕もと、自分から上がる子、スタッフに勧められて上がる子、雲梯もわんぱくで占領という状態になります。周りで遊んでいる親子にはすぐ帰りますからと頭を下げて了承してもらっていました。

 いつも公園に行けるわけではなく、部屋の中でもみんなで楽しく遊べないものかと、ごっこ遊びや集団遊び、劇遊びに取り組んでいくことになります。

活動の中に劇を取りいれたい!

 小学生の私は、劇は好きだけど、セリフを言うなどとんでもないという子どもでした。「証城寺の狸囃子」という劇で、踊りのみの小僧さん役をやったのを覚えています。大人になっても同じで、劇を見るのは好きだけど、やるのはちょっと。私自身、心も体も解放されていないのだと思っています。それでも、子どもたちと一緒に劇を楽しみたいと思っていました。

 演劇教育に関心があり、こころをからだで表現する「みんなが孫悟空」などの革新的な授業実践で知られている鳥山敏子さんや「ことばが劈かれるとき」で有名な演出家の竹内敏晴さんの影響を受け、著書を何冊も読みました。二人ともかなり強烈な個性で圧倒されました。自分自身と向き合うことを厳しく要求しているような印象を受け、そのやり方はとても真似できないと思ったのですが、共感できることはたくさんありました。傷ついた子どもたちや大人に、痛みを共有しながら、真剣に立ち向かう姿には尊敬の念を持ちました。私も少しでも、体と心を解き放つことができるような実践がしたいと思いました。

 お話しの世界に入って、違う自分になることで、解放されるものがあることは確かだと思います。普段の自分はしないことも、お話しの中ではできてしまうことがあって楽しい。新しい自分を知ることにもつながります。劇遊びに取組む価値はあると思いました。ただやり方をどうするか、それが問題でした。この後、長い取り組みが始まることになります。


 すみコラム 第7回 わんぱくクラブの保育を振り返って
   体と心を解放して遊ぶ 〜ごっこ遊びや劇遊びを通して〜(中編)
(2015.10 近藤すみ子)

まずはごっこ遊びから

 わんぱくクラブも、はじめの頃は健常児の集団でしたので、自分たちでよく遊んでいましたが、障害を持っている子が増えるにしたがって、ままごとをやるのもスタッフ主導になっていきました。

 『かくれんぼ』を普通にやることも難しくなってきました。『かくれんぼごっこ』という形で、かくれる場所を作り、見つけた時、見つかった時もセリフ風にしました。見つけた人を指差し「○○さん見っけ」、見つかった方は「見つかっちゃった」。上手にかくれる人がいたりすると、忘れてしまったこともあり、何で見つけてくれなかったのと言われたこともありました。

 ハンカチ落としも、取り組むには工夫が必要でした。座布団をまず形に並べて、一人一人中を向いて座らせるというのをしばらくやって、座布団が無くても座れるようになるには1年程かかったと思います。ハンカチ落としの本来の楽しさは、ハンカチを落とされた人が気づかず、タッチすると輪のまん中に(便所に入ると言う)。鬼はもう一度ハンカチを持って走ることができるので、ヤッター!ということになります。ルールが良くわからない子は、なぜ自分はタッチされて真ん中に座らせられるのか納得いきません。便所という言葉も気に入らなくて、本気で怒って遊びにならなかったこともありました。

 そこで、スタッフはルールがわかる子もわからない子も楽しめるように、それとなく支援することを求められます。ハンカチが落とされたことをうまく教えたり、すぐに走り出せない子は、一緒に走ったり、ハンカチの落とし方がわからない子にはそっと援助したり、雰囲気を壊さず、ルール通りにやっていないこともあまりわからないようにするのは結構難しいものです。やはり『ハンカチ落としごっこ』になります。慣れてくると、ハンカチを好きな子や好きなスタッフに落としているということがはっきりしてきます。終礼で、初めて○○さんに落としてもらったと喜ぶスタッフがいたりして、ほっこりした雰囲気になりました。ハンカチ落としも人数が増えると面白くないので、やる回数が減っていきました。回数やらないと、スタッフの援助もうまくできなくなり、遊びとして成り立たなくなっていきました。

 野球をするのも、『野球ごっこ』。バットを持って打って、ボールが当たると(スタッフがバットにボールを当てる)、手をつないで1塁に。次の打者が打つと、2塁へ連れて走る。次は3塁、そしてホームへ。「やったね!」と喜ぶ。実際子どもたちはそんなに喜ばない。これは何?という表情をしていました。スタッフの中にも「こんなことをして、何になる」「子どもたちは喜んでない」「むしろ嫌がっている子もいる」と思っていた人たちがいたと思います。私に直接言う勇気のある人はいませんでしたが。そうこうしているうちに、なんだか野球らしくなって嫌がっていた風の子どもたちも、心持ち楽しそうにやるようになっていきました。『野球ごっこ』の中で、喜びを表現する方法を体得していったのではないかと思っています。嬉しい時に、手をたたいたり、ハイタッチをしたり、ホームベースを踏んで待っていたスタッフに抱きついたり。ひかりの活動の中で、卓球やボーリングなどで、うまくいくとハイタッチをしている姿をよく見かけます。

 ゲームをやるにしても、ほとんどスタッフが場面設定をして、遊びだよという雰囲気を作る。黒ひげゲームでさえ、『黒ひげゲームごっこ』でした。何が面白いのかわからない子どもたちがたくさんいる中では、ゲームは成り立ちません。「○○君から始まる黒ひげ一発、いえーぃ!」等と、ひたすらスタッフが盛り上げていました。坊主めくりも、『坊主めくりごっこ』でした。やっていくうちに、自分の前に札がないと不満そうな顔をするようになり、少しずつルールを理解して、楽しさがわかるようになっていきます。ひかりに入ってしばらくしたころ、リョウ君が楽しそうにゲームをやっている写真を見て、ここにくるまで20年近くかかったとお母さんと話したものです。

 学校や療育施設で何かをやらされているので、何をやっても遊びではなく、集団でやることは、すべて課題だと思っているようでした。しっぽとりをした後、私のところに来て、コウ君が「遊んでいいですか?」。今の遊びだったんだけどなあ・・・。

 みんな何かができるようになることを期待され、よい子であることを要求され、今のままの自分を認めることを許されてこなかったのではないか。単純に楽しいだけということに価値を見いだせない子どもに育っていたのではないかと思っています。

楽しい劇遊びごっこ

 世田谷幼稚園のプレハブの建物に移った頃、昔話をよく劇遊びでやっていました。ももたろうが特にお気に入りで、小道具はいつでも取り出せるところに置いてあったので、何時でも『ももたろうごっこ』が始められます。桃の絵が張り付けてある鉢巻をして陣羽織を着て日本一と書いた旗を持つとももたろう、角のついた毛糸の帽子をかぶり鬼のパンツをはいて、張りぼての金棒を持つと鬼のできあがりです。その頃とても仲良くしていたユウ君とカズ君がよく自由時間に衣装を着て遊んでいて、「公園に行くよ」 というと、その衣装のままで出かけようとします。「公園だからまあいいかということになりましたが、買い物に行く時もそのまま行こうとするので、「それだけはやめて」。ユウ君は「日本一のキビ団子」というセリフの中の「日本一」が気に入って、ほめ言葉にしてとても嬉しそうに「日本一」を連発していました。

 また、帰りの歌は、楽しさを増すように、衣装や小道具を作ったり、振り付けをしたりしました。劇遊びのような雰囲気だったのだと思います。一番記憶に残っているのは、「離陸準備完了」という歌を今月の歌にした時のことでした。ユウ君が、廊下に出て後ろに小学生の子どもたちを並ばせて、前奏が始まるまで待機していて、離陸を感じさせるような演奏になると両手を広げてホールを走り出てきます。後ろの子どもたちも同じように両手を広げ後に続きます。圧巻でした。この時は、振り付けをしたわけではなく、自然発生的なものでした。

思いがけない出会い

 わんぱくクラブになって、お楽しみ会など行事をやる時は、私が絵本や短いお話を基にして拙い脚本を書いて劇をやっていました。

 人数が多くなり、みんなで劇を楽しむというのは難しくどうしようかと思っていた所、思いがけない出会いがありました。家庭訪問をしていたらその隣の部屋から、私が保育園で働いていた頃父母だった人が現れました。久しぶりに会って話をしたところ、わんぱくクラブの活動に協力してくれることになりました。演劇について勉強して自身も演技者を目指しているということで、月1回演劇教室と銘打って、その講師をやってもらうことになりました。その時、ピアノ伴奏をしてくれた人が半沢さんです。その後アルバイトスタッフとして働いてくれることになり、音楽遊びを長い年月受け持ってもらいました。彼女のやってくれた音楽遊びは本当に質の高いものでした。プロのすごさを、彼女がやめた後実感しました。偶然の出会いがわんぱくクラブの活動を豊かにしてくれることにつながっていき、ほんとに運が良かったのだと思います。

 演劇教室は月1回でしたが、何年も続けたので積み重ねたものはたくさんあったと思います。参加していたメンバーは、劇の楽しさを体にしみこませたのではないかと思っています。 場所取りが難しくなったことや、参加人数が多くなり過ぎたこと、全体の活動の中で土曜日を確保できなくなったことなどで、日常の活動の中に取り入れることにしました。何年か各施設で続き、講師の先生の都合でやめましたが、ひかりと幼児グループの活動の中で、形を変えて残っていきました。


 すみコラム 第8回 わんぱくクラブの保育を振り返って
   体と心を解放して遊ぶ 〜ごっこ遊びや劇遊びを通して〜(後編)
(2015.11 近藤すみ子)

劇遊び(オペレッタ風)の始まり

 月1回の土曜日の活動に参加できない人もいるので、何とか日常の活動の中で、みんなで劇を楽しむことができないものかと考え、劇遊びと称して、音楽入りで、全員でできるようなものを考えました。絵本を基にして作りましたが、何を選ぶのかが問題でした。数か月かけて、図書館や本屋を回って、これだと思うものを探しました。やったものは、「てぶくろ」「大きなかぶ」「こすずめのぼうけん」「スイミー」「きんいろあらし」「おむすびころりん」「ももたろう」「ブレーメンの音楽隊」などです。どれもいい作品でしたが、中でも半沢さんの「てぶくろ」、岩橋さんの「こすずめのぼうけん」は出色の出来ばえだと思っています。余談ですが、「こすずめのぼうけん」のテーマソングをコンサートのジョイント曲として歌ったこともありました。上條恒彦さんが快く承諾してくれ実現しました。

 「てぶくろ」は、みんながてぶくろに入って、最後に犬とおじいさんが出てきて、犬の「ワンワンワンワン」という鳴き声で、動物たちがワーッと逃げ出すのが一番楽しいところです。てぶくろの中に動物が1匹ずつ入っていき、だんだんギューギュー詰めになって、最後の方は無理やり入っていく、それもまた面白いところでした。

 「こすずめのぼうけん」は、私が障害児学級の教員時代に取り組んだものです。その時、子どもたちが飽きずにやっていたので、きっと楽しめると思いました。母をたずねて、様々な鳥の巣を捜し歩くこすずめの物語です。「あなたは私のお母さんですか?」と聞き、鳴き声が違うというやり取りを繰り返します。このやり取りが何とも面白いのです。このテーマ曲「小さなつばさ」を、数年前わんぱくまつりで、岩橋さんが演奏してくれました。覚えていて一緒に歌っている人が何人かいたのには驚きました。

 「スイミー」は、小さな魚の集団が大きな魚に立ち向かっていって勝つというお話です。 スイミーが、「よし、僕が目になる!」と宣言するところは、感動的でした。 「きんいろあらし」は、やなぎむらという虫たちが住む小さな村のお話です。1幕1場にはおさまらなかったので、形になるのはかなり大変でした。最後に少しだけ登場する亀のかめきちおじいさんが、なぜか主役であるかのように人気でした。

  「おむすびころりん」と「ももたろう」に登場する、おおきなおむすび、おおきな桃は劇が終わった後も長く遊び道具のように残っていました。この二つはどこを見せ場にするのか考えました。とにかく人数は多いのに登場人物が少ないのです。「おむすびころり」は、おじいさんが穴に落ちた後、大勢のネズミたちとお餅をついたり、酒盛りをしたりする場面で、たくさんの子どもたちを登場させました。「ももたろう」は、村のお祭りで、たくさんの村人が集って踊る場面をつくりました。

 「ブレーメンの音楽隊」は、すでにわんぱくを辞めていた岩橋さんに特別にお願いして曲を作ってもらいました。悪役の泥棒役に結構人気がありました。衣装や振付が良かったのかもしれません。

 当時のアルバイトスタッフだった半沢さん、その後は岩橋さんに、作詞・作曲は全部お願いしました。スタッフも飽きずに歌い続けられるには、いい楽曲であることが必須です。言葉や音楽の水準が高いことが、劇遊びが子どもたちに受け入れられる条件だと考えています。劇遊びが好きな子も、嫌いな子もいるので我慢できる範囲というので、できれば5分、長くても7,8分で終わるように作ってほしい。出たり入ったりは難しいので、はじめから全員舞台に出ていて、話が進むようにしたいので、1幕1場が一番望ましい等々。注文をたくさん付けたので、やりにくかったと思います。

 子どもたちはほとんど歌わないので、スタッフが歌の練習をしました。毎日打ち合わせんが終わるとみんなで歌の練習です。迷惑に思っていたスタッフもいたのかもしれませんが、私はそんなことは気にもせず・・・。全員が歌を覚えないと始まらないので、覚えた時点で子どもたちとの劇遊びが始まります。時間に限りはあるので、完全に覚えるまで待つことはできず、歌詞を見やすいところに張り巡らして、ちらちら見ながら歌えるようにしていました。スタッフは苦労して覚えたのに、すぐに歌える子もいてびっくりしたものです。

 イメージが浮かぶように、衣装も考えました。でも、被り物は嫌いという子が多かったので、はじめの頃は、ほとんどベストかスカート、マントなどでした。そのうち、お面はいやでも帽子なら大丈夫だろうと、やっていくうちにお面でも大丈夫な子どもたちが増えていきました。不思議なことに、散歩の時に帽子をかぶるのを嫌がっていた子たちが、あまり嫌がらなくなりました。夏休みはよく長い距離を歩いていたので、帽子が被れるようになって安心したものです。劇遊びのうれしい副産物でした。

 劇をやるときは、基本的には好きな役を子どもたちが選ぶので、衣装も多めに準備しておきます。役によっては子どもの希望者はだれもいなくてスタッフだけということもありました。一人だけが目立つようなものは選びませんでしたが、主役らしい役も出てきます。極力全員が主役という雰囲気づくりを心がけました。面白いことに、好きな役というものがあり、何度もやっているうちになんとなく役が固定していきました。3月の「進級を祝う会」(今の「全員集合の会 )、で披露する少し前から役を決めて、親に見せるための練習をします。と言っても子どもたちにその自覚があったかどうかはわかりませんが、どの劇をやった時も本番が一番上手にできたので、やはり見てくれる人がたくさんいるというのは、やる気を引き出すのでしょう。題材選びから1年がかりの取り組みでした。

 どの劇も最後にみんなでテーマ曲を歌いました。練習の時でさえ、みんなと最後テーマ曲を歌う時は、気持ちが高揚して、本物の舞台でもないのに、舞台でフィナーレの曲を歌っているようでした。心が解き放たれるような気がしたものです。

 「てぶくろ」の劇をやっていた頃、公園に遊びに行くと、サキさんが寄ってきて「見つけたらほえろ」と私の顔を見て言います。「ワンワンワンワン〜」と犬の鳴き声をまねて脅かすと、嬉しそうに「キャーッ」と言って逃げます。こんなことを繰り返していました。劇遊びが遊びになった瞬間です。どの劇遊びも遊びにつながったわけではありませんが、子どもたちの心の中に何かを残したと思っています。

劇は見るよりやりたい

 お楽しみ会の出し物にスタッフの出し物というのを設け、寸劇のようなものをやっていました。その頃アルバイトスタッフだった丸山さん(現在、生活支援の介護人を長くやってくれている)によく主役をやってもらい助けてもらいました。スタッフの出し物を10年ぐらい続けたころ、スタッフが終わると自分たちもやるのだと思って見ていたらしく、自分たちもやるとメンバーがぞろぞろ前に出てきました。予想していなかったのですが、一緒にもう一回やることになり、その後は、プログラムの中に入るようになりました。子どもたちは、見るよりも自分たちがやりたいと考えたようです。演劇教室や、劇遊びの経験がそうさせているのではないかと思いました。わんぱくクラブの年1回のコンサートに子どもたちも舞台に上がって一緒に歌う機会があるという経験も、その気持ちを育てていたのだと思っています。

演劇教室復活か?

   相談支援で、利用者本人の面接をしていて、最後に「ところで、これからどんなことがあればいいなと思っていますか? と聞くと、「みんなで演劇教室をやりたい」という答えが返ってきました。1993年に始まり2003年に土曜日にみんなでやるのはやめ、その後は各施設で年4回ずつぐらいやっていました。演劇教室をやめてからもう10年以上たつので、そんなことを言うと思わなかったのでびっくりしました。もう一度やれるとほんとにいいなと思いますが、同じような形では無理なので、何らかの形で実現できればと思っています。


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