大雪警報の中のコンサート
2月7日(金)コンサート前日のNHK のニュース「明日は20年ぶりの大雪です。無理な外出は控えてください」と流れました。「無理な外出?」「え、必要のない外出ってこと?」「無駄な外出ってこと?」
胸騒ぎを覚えながら「わんぱくコンサートは無理な外出ではない、なくてはならないコンサート、21回目にして中止なんてありえない」と心の中で叫びながら寝床に入りました。そして、迎えた朝、9時ちょうどに「コンサートは予定通り開催されます」と一斉メールが届きました。
午前中、降り続く粉雪、風もなかったので「これなら大丈夫、現地まで簡単に行ける」と思いきや午後から横殴りの雪。「きっと会場は三分の一くらいしか埋まっていないかもしれない、いやもっとパラパラかもしれない、尾崎亜美さんに悪い、盛り上がらないだろう」とまた不安を抱えながら会場へ。ところが扉を開けてびっくり黒山の人だかり。後ろに空席はあったもののほぼ満席状態でした。そこへ肌も衣装も雪に負けないくらいの尾崎亜美さんが笑顔でさっそうと登場。大雪警報のこともすっかり忘れて歌に酔いしれていました。
尾崎さんは幼い頃、寡黙な少女で授業で発言することもほとんどなく、学校の授業で関係のないこと「そういえば昨日、テレビでブラジルのことやっていたなあ・・ブラジルって日本の裏側」と思いつくと教室から出て行き砂場に突進。「まっすぐに掘ったらブラジルまで到着するのには時間がかかる、そうだ!斜めに掘ると早く着く!私って天才」と思ったそうだ。ご両親に担任が「お子さんを指導するのは難しい、そういう子どもだけが通うクラスに変わったらどうか」と言われたそうです。そんな中、音楽と出会って表現する手段を見つけ今の自分があるというトークが歌の合間にありました。“砂場で穴を掘る時、斜めに掘った方がブラジルに早く到達する”という発想力、大ヒットの曲を生み出す才能が幼いころからあったんだなあと思いました。
障害を持つ子どもの中には居場所がなく学校で同じような経験をしている子どもも多い中、わんぱくが心の寄り処、そして自己表現を出来る場であると感じ心に響いた言葉でもありました。
わんぱくコンサートならではの子ども達の声のBGM も交えながら尾崎さんの歌声は雪のため残念ながら参加できなかった人の胸にもきっと届いたでしょう。コンサートが終わり外
に出ると20センチ近くの雪。ズシズシと雪を踏みしめて“オリビアを聴きながら”を口ずさんで帰路につきました。
(「わんぱくプレス2014年2月号」より転載 立石美津子)
ウォーキング(いつも二人で)
「ひかり」に通所している息子は週4回砧公園へウォーキングに行きます。内3回はヘルパーさんと、日・祝祭日や年末年始は母親の私と…雨でも雪でも猛暑でも。世田谷通りの上にかかる陸橋を大蔵方面に向かって行くと、冬晴れのこの時期だけ落葉した枝間から遠く箱根の山々を従えた雪景色の富士山の頭をくっきりと望むことができます。こんな具合に息子のウォーキングに付き合っていると四季折々の自然とふれあいます。
「けやき」は冬の木、枝ぶりの立派な大木には冬枯れの枝の美しさが際立つ今こそ美しい木です。「もくれん」は春の木、桜よりも早く咲くこの花を見つけると春が来たなと思います。秋は「くぬぎ」まあるい大きなドングリは朝早く行かないとなかなか拾えません。
毎年夏になると水元公園の「メタセコイヤ」の森に無性に行きたくなります。今年の年末年始は息子の通う生活介護施設が9連休でした。一息ついたのも束の間、来年の年末年始も9連休です。毎年カレンダーを新調するたびに一喜一憂するのは私だけではないのでは? 「もうこれ以上休日をつくらないでほしい」これが私の本音です。
(「わんぱくプレス2014年1月号」より転載 ふるめたる)
【ちょっとコメント】オレンジ色に紅葉する晩秋のメタセコイアの森も、なかなかのものですよ!
「子供とともに歩んできた道」お父さんバージョンです。
騒穣記
山口 俊行
EPISODE 1 ― 液状化の恐怖・・・10歳くらいの時かなぁ
12月下旬の寒い日だった。穣と父は大江戸線で移動中だった。その日は夕方に穣の母親、つまり父の妻と表参道で合流して楽しく過ごすはずだった・・・・
乗り換え駅の青山一丁目まであと何駅かなと思っていたら、穣の顔いろがどうもよくない。父は親の勘で聞いてみた。
―ゆっちゃん、トイレか?
―はい。
なにー!あと少しで乗り換えだし、そこまで我慢させようか、下車してすませようか。開通したての大江戸線だからトイレも新しくて機能性がいいかもしれない。思い切って降りよう、などと決断して,駅名など確かめもせずに下車した駅のトイレへ行った。そこは表示は大きかったがトイレは小さかった。
穣は父の小走りにけなげについてきたが、じょじょにものは漏れ出していた。やっとその個室に入ったときには漏れの第一章は終わっていて第二章にさしかかっていた。幸か不幸か液状化現象のためにズボンが吸い取り役となり靴への被害は最小限に食い止めることが出来た。しかし靴下はだめだった。無論ズボンは・・・絶望的だった。しかし父は必死だった。
時は刻々と過ぎていた。何度も水を流しながらズボンと靴下とパンツのもみ洗いを繰り返した。水の冷たさは最早感じられなかった。むしろ汗だくになって、額から滴り落ちた汗が眼鏡に溜まった。涙雨みたいなもんか、と思って息子を見上げると、にっこりして言った。
―ンコ ツ・・たよ
―よくでたね。でもおなか大丈夫か。痛くないか。
―ナイヨ。イイコ〜
父はひどい顔をしていたのだろう。穣は父の頭を撫ぜて元気づけようとしていた。この笑顔にいつも助けられる。まぁ、出るものでたからいいかと、この時も気分は吹っ切れて次の展開を考えた。
下半身裸のままで人前に出ることはできない。さらに問題なのは妻を待たせたら大変なことになることだ。彼女は父を待たすことはあっても待つのは嫌いなのだ。刻々と時は過ぎた。
父は自分が着ていたセーターを穣にすっぽりとかぶせてみた。うまく膝頭のあたりまで隠れた。これで何とかなる。靴下は現地調達だ。表参道で下車して地上へ出た時は、妻との待ち合わせ時刻は確実に1時間は過ぎていた。恐ろしくて腕時計に目が行かない。父の目は開店間もないBENNETONを探していた。たしかに新しく開店しているはずだと思いながら夏の暑い時期にBudweiserの店舗が開いていたところを目指して穣と走って行った。寒くて走らずにいられなかった。はたしてBENNETONはあった。夏に見たBudガールを懐かしみながら、普段なら絶対に入らないこのブランド店に入り、穣用の靴下を買い、その場で履かせた。「こんな(値段の)高い靴下を買って・・・」という妻のドスのきいた声が頭の中でこだましていた。
EPISODE 2 ― ある愛のかたち
穣には自分なりの行動規範があり、それをかなり厳格に実践するところがある。様々な形態があり、かつてはあったが今ではなくなっている行動もある。16歳のころから18歳くらいのときまで食事時の事件がいくつかあった。穣の食卓には箸とスプーンを用意していたのだが、とくにスプーンは絶対的に決まったものを使っていた。いわばお気に入りの型のものであった。父はそんなことに頓着せずスプーンはスプーンだとおもい、少し新しめでかっこよいとおもって数本あるうちから適当に1本用意しておいたら、それが穣の怒りを招いたらしい。穣はご飯を星飛雄馬の親父のようにひっくり返してしまった。
父はこういうことが外であってはならないと思い、烈火のごとく穣を叱った。穣は石のように体を固くして怒った。父は息子の手首を強く掴んでその動きを強制的に止めていた。
その時である。穣の兄が「ゆっちゃん、納得してないよ」といって、じっと弟を見つめて、手をとり柔らかく握っていた。父は長男の指摘にまごついていた。短い時間であったが穣は兄にひとこと「ゆっちゃん、食べよ〜」と声をかけられて、落ち着いていった。「ウポ」と言いながら食事を始めた。この兄貴は要所を締めていた。べたべたしないが、いつも弟を視野に入れていた。
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父は手動式トロッコの運転手である。穣を乗っけて敷かれたレールの上を遊び半分で走っているのである。運転技術は世界レベルである(やや穣の兄貴が迫ってきているが)。ときどきトロッコを止めてこっそりと秘密のおやつを買い食いしたりしているのである。デへへ・・ 何故秘密の行動か?なぜならレールを敷いている母親がいるからである。
穣はニキビのための塗り薬以外に薬らしい薬を服用したことがない。かつて穣の幼いころ重い風邪を患ったときに彼女は夜通し穣を抱き、一緒に呼吸し、言葉にはしなかったが「絶対に治る!」という気合を発していた。父はここでもまごまごして、「どうしたらいいんだ」とうろうろしていた。やがて穣は自分で回復していった。父はそんな苦労の上に培われた土壌の上で穣と走ったり歩いたりクリームソーダを食べたりしているのである。穣が父と楽しそうにしているのは健康な証拠で、少しでも調子が悪くなると穣は母親に触れている。母親のどこかに触っている。決して父ではない。
穣は自分のそばにいる人たちが楽しそうにしていることをとても喜ぶ。幸い大きな病気を患ったことが今までになく、このことは本当に幸運だと思っている。しかし、少し気管支が繊細なので冷たい空気に弱いところはある。かなり限界近くまで自分の苦痛を我慢する気質で、父にしてみるとこれが穣の欠点にもなっている。人が困ったり、悲しがったりするのを見るのが嫌なのである。まして自分のことで人が困ってほしくないのだ。
父はそういう息子と時々その兄貴を巻き込んで、「ほんとに、もう・・・」と言われながら遊んでいるのである。
あっという間の23年…
染谷 滋子
1990年10月25日、染谷家の長男として和嗣は生まれてきました。一緒に泣いたり笑ったり怒ったり…あっという間の23年を振り返りたいと思います。
クルマ
和嗣と言えば、何はともあれクルマ。自動車好きな父親の血を引いているのか、小さい時から、ウルトラマンでも、電車でも、戦隊ものでもなくクルマ一筋です。
小学校時代、おじいちゃんが仕事で使っていたハイエースのミニカーを“トラック”と呼んで、毎日お守りの様に学校にも持って行きました。ある時校庭の側溝の中に落としてしまい、重たい蓋まで開けてもらったのですがそれでも見つからず、和嗣が忘れるまで大変だった事を覚えています。
昨年位まではクラウンのミニカーがお気に入りでした。毎日、言葉通り肌身離さず持っていて、お風呂にはいる時以外は、必ずお尻のポケットに入れていました。たまにお尻を触って、在るのを確認している姿には笑えました。寝る時もパジャマのポケットに入れていましたが、朝起きたら見つからないという大事件に!!そんな時母は、ベッドのマットレスを動かし、部屋中の隅から隅まで探さなければなりません…見つかるまで福祉園には行けず、そんな理由で何回も遅刻をしました。お蔭でミニカーはペッチャンコになり、色は剥げ、ほぼ原形をとどめない状態になっていました。それがちょうど1年位前、他のミニカーの山の中に埋もれ持たなくなりました。おじいちゃんが車を手放したので和嗣も卒業したのでしょうか…理由はわかりませんが、記念にこっそり私の引き出しにしまってあります。
プールと公園
小さい頃からプールが大好きで、慎重で怖がりな性格の割に水の中では怖いものなしでした。特に、父親にプールの中で抱っこして投げてもらうのが大好きで、何十回も繰り返していました。また、足の届かないプールでも腕用浮き輪をつけて、唇が青くなるまでずーっと潜ったり浮いたりを繰り返していました。和嗣は今でも「芝のプール行きたいね」と思い出したように言っています。(もうないのですが…)
自転車は、最初は駒沢公園や砧公園の子ども自転車乗り場で、補助付き自転車に乗り何周も何十周もグルグルと飽きずに走っていました。今思うと、このプールと自転車が唯一和嗣が夢中になって遊んでくれることでした。
思春期
小さい頃からまわりの大人とお喋りするのが大好きで、とても社交的だった和嗣ですが、中学2年生の頃思春期が始まりました。自分の体の変化について行けず、変なスイッチが入ってしまう事が何回かありました。そのスイッチが入ると、ウォーウォー泣いたり攻撃的になったり、こちらの言う事も全く入らない、何をするかわからない別人になっていました。そのスイッチは突然入り、1〜2週間すると突然いつもの素直な和嗣に戻っていました。今でも謎ですが、少し大人になったのか、このところそのスイッチは入りづらくなっているようです。こんな時、学校にも行けず通所もできなかったのですが、わんぱくのスタッフと幼稚園から続けているお絵かきの先生は「お母さん、大丈夫だから」と言って、泣いている和嗣でも預かってくれました。どうしたらよいかお手上げで、煮詰まっていた私にとって、本当にありがたい存在でした。
これから…
あっという間に成人式を終え、お酒も飲める歳もとっくに越えました。今では、私たちと一緒に、缶チューハイで晩酌をしています。(ほろよいブドウ味がお気に入りです)
たばこは、父親のまねをして2歳頃からマクドナルドのストロー(これが太さ硬さともにちょうどよいらしいです。最近はスタバの緑色もお気に入りです)を4等分にしたものを吸っています。20年のベテランで、なかなか様になっています。
シャツのボタンは一番上まできっちり留めて、シャツは必ずおなかの乗っかったズボンの中にインです。もう少しかっこよくおしゃれをしてほしいのですが、無理の様です。
最近はわんぱくの生活支援で、カラオケや外出を楽しみ、ショートステイでのお泊りも、喜んで行っています。これは私にとってもたいへんありがたい事で、夫婦で映画を見たり、お酒を飲みに出かけたりできる様になり、こんなフツーの事ができる様になるとは、小さい頃には考えられませんでした。
これから先も、毎日連絡帳を書いたり、お風呂に入れたり、私もだんだん歳をとり、身体がきつくなるだろうなとか、実は毎日、大きな身体で「ママ〜?」ときんぎょの糞の様にくっついてくる和嗣に「暑いっ!!離れて!!」と怒鳴ってるんだろうなと思いつつ…
まわりの皆さんに助けて頂きながら、明るく元気に楽しく!!過ごしたいと思います。
シリーズ「兄弟の気持ち」の3回目です。冊子「わんぱくプレス」からの転載です。
兄弟の気持ち(3) 弟のこと(2013.09)
弟はいつものんびりやさんで、何か言っても行動を始めるのに時間がかかります。また、どんどん太ってくるし、宇宙人や雷をこわがってさわいだり、1日中ゲームをやっていたり、とこまることがたくさんあります。でもその反面、ケンカをしても根にもたないし、人の悪口をいったりはしません。
ぼくは、いつもおどろくことがあります。それは、はげしく転んだり頭をぶつけたりしても決して泣かないこと、それからDSでゲームがとても上手なことです。二人で通信対戦しても、いつも負けてしまいます。弟と遊んでいて一番楽しいのは、ゲームの中の音楽や言葉をつかって遊んでいるときです。僕と弟がわかる共通語がいろいろあって、とっても楽しいです。
でも弟は、ぼくがいるときはいっしょに遊びますが、ほうっておくと、一生ひとりでゲームをやっていそうなのです。だからぼくは、弟にはわんぱくクラブが必要だと思います。わんぱくクラブには弟と遊んでくれる友だちや大人がいっぱいいて、コミュニケーションの練習がたくさんできるからです。これからは弟の様子をみながら、弟についてさらに理解していきたいです。
(「わんぱくプレス2008年11月号」より転載、小学校5年 ナオキの兄)
兄弟の気持ち(2) 弟とのくらしで私が考えたこと
(2013.08)
私の弟は、知的障害のある自閉症です。
私がそのことをはっきりと知ったのは、幼稚園の年中くらいのころでした。そのころは、弟の障がいは大きくなったら治ると思っていました。だから、「はやく、寝る時、二段ベッドの上と下で、こっそりおしゃべりできるようにならないかな。」と思っていました。けれども今では、その夢はかなわないことを知っています。
うちにいるときは、意味のない言葉だけれど、おもしろい響きを選んでいるところ(「えころんで」「ねちょま」「たべにこみ」「あみーご」)や、ふとした行動がかわいかったりする弟です。けれども、一緒にスーパーに出かけたとき、ちょうど二人で手をつないでいたら、急に弟が奇声を発して、近くにいる人が耳をふさぎ、遠くにいる人が、大変ねという目でこちらを見ていました。人の視線がとても痛かったです。
私が、弟が自閉症であってよかったと思うことは、同じ、きょうだいが障がいを持っている子たちとわんぱくで遊んでいる時です。とても楽しいです。その子たちと遊んでいる時は、学校の友達と一緒にいるときよりも、もっとお行儀を気にしないで遊べます。
でもつらいと思うときは、学校の友達に、障がい者達の事を悪く言われたときです。怒りで体のすべての機能が一時停止します。
障がいをもつ人を差別するような人は、障がいについて何も知らないのだと思います。私たち家族が生活で苦労していることもなんにも知りません。私たちの気持ちを、いろんな人に知ってもらいたいです。
(「わんぱくプレス2008年12月号」より転載、小学校4年 みさと)
すみコラム 第5回 わんぱくクラブの保育を振り返って
〜集団作りはなんのために(後編)〜
(2013.07 近藤すみ子)
班長をすることの意味
わんぱくクラブの人数が増えていく中で、班活動を再開するようになりました。班長を育てることに重点を置いて、班長が動かなければ物事は始まらないという状況を作り、みんなの中に「班長はすごい仕事だ!」ということが定着していきました。まず、班長が中心になってテーブルやいすを運ぶところから始まり、班長が「いただきます」と言わなければ誰も食べられないし、「ごちそうさま」と言わなければ誰も席を立てないのです。掃除も班長が「これで掃除を終わります」と言わなければ掃除は終わりません。人数の多い時などはスタッフと子ども合わせて40人以上いた時もあったので、台所掃除の人たちが拭くコップや皿の数は半端じゃありませんでした。洗うのはスタッフがやっていたので、洗い終わったものをカゴに入れて運ぶのも子どもたちの仕事でした。その頃の子どもたちは今ひかりのメンバーですが、夕食作りなどほんとによく働きます。仕事の取り合いになったりします。
話が少しそれましたが、班長の仕事をやると、物事の流れというのがわかってきます。何事も順番があり、原因があり結果がある、物事には始まりと終わりがある、などということがおぼろげながら分かるようになり、班長をやめた後も、自分のやるべき仕事を見つけることができるようになります。席についていない子を呼びに行ったり、おやつが終わって椅子が片付いてなければ代わって片づけてあげたりという、臨機応変な対応もするようになります。班活動ではない、行事等でリーダーをやることもできるようになります。班を離れて全体を見る力も育っていきます。ただ、人数が増えてくると、みんなに班長をやってもらいたいという思いがあるので、班長をやる期間が短くなり、時間をかけて班長を育てることができないというのが悩みになってきます。低学年の内から学童クラブに入ってもらうといいのですが。ただ、ひかりのメンバーのように大人になっても成長し続け、力を付けているので遅すぎるということはないと思います。
はじめは、スタッフが班作りをして班長もスタッフが選んでいました。状況が許すときは、班長選挙もやりました。班長の資質で大事なことは、働き者であること、思いやりがあり優しいこと、この二つが子どもたちの判断の基準でした。これは健常児も障害を持っている子も同じでした。子どもたちから学んだことの一つです。この二つの中でも、働き者であることの方が優位に立っていることがとても興味深かった事です。子どもたちはよく見ていました。班長は名誉職ではないということを理解していたということです。
班を作ることの意味
班長が決まってから、好きな班長の所へ行って班を作るという形で、班を作ったこともあります。ひかりは今その形で定着しています。普段は仲良しでも、その子の班に行くかというとそうでもなく、おやつや掃除をするということがイメージできるようになると、一緒に食べたり、働いたりするのに楽しくやれるかどうか判断して動いているような気がします。また、一緒の班になったことで仲良くなるというケースもありました。うちに帰って話す友だちの名前を聞くと、同じ班の人だったということはよくありました。身近な人になるため、人間関係もできていきます。
そういう意味でも班で活動するメリットはあります。班は小さな社会のようなもので、おやつ一つとっても、すぐに食べ終わってしまう人がいたり、いつまでも時間がかかる人がいたりします。初めは早くしろと怒ったりしていても、まあ仕方がないか、待ってやろうという雰囲気になったりします。それぞれが意識せず感情をコントロールする力を身に着けていきます。班替えをする時に、援助が必要な子どもがいる班を選んでいく子も出てきます。自分が仲間の力になろうと考えることができるということはすごいことだと思いました。
話し合いは難しい
話し合い活動も始めましたが、何のためにやっているのかわからない子が多く、話し合いの形になかなかなりませんでした。おやつメニューの話し合いだけは、早いうちに形になりました。イメージがわきやすかったのでしょう。話し合いが長引くと、みんな機嫌が悪くなるので、話し合いの形を決めて意見が出ると素早く決めてしまいます。バナナという意見が出ると、司会「バナナでいいですか」みんな「いいです」。やっているうちに記録に書かれたものがおやつになるということがわかるようになっていきました。班替えをして班の名前を決める話し合いでは、班名が食べ物の名前がしばらく続きました。そのうち自分たちが好きなものの名前に変わっていきました。バスとか電車とか、ドラえもん、アンパンマン等です。お楽しみ会の話し合いでは、班の出し物を何にするのか、話し合いました。候補がないと、いつもドラえもんの歌等アニメソングばかりになるので、いくつか候補を作って、その中から選ぶということをしました。
そうやって育ったのが今のひかりのメンバーですが、学童保育時代が長かったといっても、自分たちで決めたことが、活動に繋がっているということを理解するまでには、さらに時間がかかりました。分かりやすくするように、色々工夫を重ねました。帰りの挨拶の時に、つぎの活動の内容とリーダーを聞いてみたり、その日の活動内容を、リーダーの名前と活動を写真入りで見えるところに表示したり、話し合いの結果を大きな字で書いて、掲示したりしました。今日は自分の誕生会があるとか、夕食作りで自分はリーダーだとかわかってひかりに来るメンバーが増えていきました。その機嫌のよさとキビキビした働き具合でわかります。
話し合いという活動を楽しんでいるひかりのメンバーを見ていると隔世の感があります。継続は力なりです。
自分自身が生活の主人公に
障害があると、本人のことを気遣うあまり、周りの人たちが本人の意思だと思いこんでなんでも決めてしまうという傾向があると感じています。人は年齢を重ねると食べ物や着るもの、行きたい所の好みなどは変わるものです。自分から表現することが苦手な人たちは、周りの人たちに、自分の変化をわかってもらうのは難しいことだと思います。毎日の生活の主人公になりえていない状況では、自分たちの活動を自分たちで決めて実行していくことは難しいと思います。しかし、自分たちの活動を自分たちで仕切ることができるようになれば、自分自身の生活の主人公になることが可能になるのではないかとも考えています。