支えられて
                                          
S.T

 息子は36年前大田区の病院で産声を上げました。知らせに駆けつけ、大声で泣いている子を見て足が震える思いでした。ダウン症の身体的特徴が揃っていたからです。受け入れ難い現実を産褥の妻には言えずに『似てないけどよその赤ん坊と間違えてないかい』と思わず聞いてしまい『今日生まれたのはうちだけ』の返事にガックリした記憶があります。私が子供の頃、叔母の家近くの内科の開業医さんでお子さんがこの障害でした。何度かお会いしたことがありました。養育に専念するために廃業をされたそうですが親って凄いなって感動をしたものでした。
 
 十数年後、偶然目にした新聞の小さな切抜きに、ダウン症の長命記録の見出しがありそのお子さんが37才?で亡くなられた、障害で通常の人の2倍の早さで老化するので37才?は記録的とかなんとかの内容であった気がします。その後ダウン症について関心が湧いたので本を読んだりしてある程度の知識は持っていました。赤ん坊を見た時の驚きはこれらの記憶が脳裏に渦巻いて宿命的なものさえ感じたからです。ダウン症の知能の発達は3歳児並みまでといわれ、チンパンジーなども同程度の知能発達といわれているので大きなショックでした。

 素人判断の間違いではと一縷の望みをもって専門病院で診察を受け、21番染色体異常、ダウン症の宣告を受けました。その際早くから集団生活を経験することの重要性を教えられ、2才から療育施設に暫く通ったのですが、送迎が大変で仕事との両立も難しく将来通学することも考慮し、徒歩通学や通所が出来る地を探し移転をしました。2分で行けた職場がバスで45分かかることになり、自営の大変さで、早朝5時6時出勤から夜中過ぎの帰宅など珍しくもなく、バスが使えず仕方なくの自転車通勤も度々の職務質問には参りました。

 ダウン症はおとなしくて可愛いと云われますが、小学生の頃はまさにその通りでいつもニコニコして踊りが好きで得意げに踊っては周囲に可愛がられていました。不思議なことに現在よりこの頃の方が言葉も多く発音もはっきりしていたので、この調子なら将来はもっと成長するかもと期待を持ったりしました。然し、だんだんとニコニコが薄れ、頑固さが見えるようになりました。気が向かないことは頑として受け入れなくなったのです。

 現在の彼の生活は、日常的な一日の自分自身がやるべきことは、指示しなくとも(指示したら怒る)自覚をもって行動できるのはある意味進歩の評価ができるのですが、パターン化されていて、そこからはみ出て自由に行動をチョイス出来た以前よりは言葉も含めて後退している気がします。

 中頃から問題行動が見られるようになりました。学校とは反対方向に歩いている彼を見つけて引き止めると帽子、カバンを投げメガネを捻り踏んづけて大荒れでした。以後は朝の様子を見て(訳もなくニヤついてる時が怪しい)怪しい時は後ろから付いて行き発見、荒れる、を学校時代で4回、作業所の始めころに2回。でメガネを幾つ作り変えたことか。 降雪があった翌日にまさかの油断で発見漏れをし迷子になりました。110番通報での捜索でも見つからず、ヤキモキしていた夜半に西荻の先の民家から通報を頂き夜中に迎えに行きました。朝からの放浪で空腹と疲労と寒さが応えたのか、以来この行動はしなくなりました。 

 しかし学校サボリと並行して水漏らし事件を6回も起こし階下の方に大変なご迷惑を掛けました。流しの排水口に雑巾、本を詰めて蛇口を開けっ放して溢れさせるのです。5回はシミを作る程度で済んだのですが1回は建具、絨毯を濡らして度重なるご迷惑にお詫びの言葉も見つからず、移転も覚悟しました。出かける度に元栓を締めて気をつけても便器の排水口にロールを押し込みタンクの溜まった分を溢れさせるなどお手上げ状態でした。当時の父母会は夜に行われ私が不在で家内の入浴時などに発生するので、何の為の努力なのか悩みました。彼にしてみれば精一杯の自己主張かもと、余り叱りもせず『お父さんがいっぱい困るから止めてね』と繰り返して云い続けたことが理解できたか不明ですが以後奇跡的に起きなくなりました。最近は波風もさして起きることもなく、大変だった頃が懐かしくさえ感じます。

 36年の時間を2ページに表現するのは余りにも難しくて私には書けません。彼と共に歩んだ長い道のりも、言葉による意思の疎通を欠いた、互いの思いが入れ違いの珍道中であったかも知れませんが、互いに信頼感の一点では繋がっていたと思います。  そして彼を支えて来たと云うより、私自身が何をどのようにしたいかの思いが、ともすれば萎える弱さを、彼や、仲間やご支援下さる多くの方に支えられて今日まで歩んで来られたことに感謝しつつ明日へ歩みたいと思います。
                                



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2009.7  くわこ

  自閉症はこだわるのだ!

 (わが子は)ただ今22歳、世田谷区内の福祉園に通園中。知的障害を伴う自閉症と言われて、はや20年近く。
知的には障害がかなり重いけれど性格はとてもおだやか、性格も丸いが体型も丸い(笑)。わんぱくの職員に言わせると、そのおだやかさんゆえに特に男の子に好かれているとか。
 困った行為もあまりなく、時々怒り出し自傷することがあるが、親の見るところ以前より回数もかなり減ってきているかな。
 ここまでなら まるっきり手がかからないように見えるけれど、自閉症特有の、パターンにはまってしまうのは健在。あとは食べ物へのこだわり、親が見るところ人何倍? それがあのまんまる体型の原因。それと着るものへのこだわりもしっかりある。だが以前から娘を知っているわんぱく職員に言わせると『お姉さんになったねえ・・・』。

 以前の記憶&記録をもとに娘の成長過程を記してみよう。
今の体型からは想像もつかないが、切迫早産の体重1798グラムの未熟児で、保育器にしばらく入っていた。冷凍母乳を持って電車に乗って病院に毎日通院していたのを思い出す。1ヶ月後退院、子育て開始して4ヶ月くらいたった頃からだろうか、どうも様子がおかしい・・・笑わない、はいはいしない、立たない、歩かない。私には障害に関する知識はなかったが、『この子絶対変だ・・・』 1歳のお誕生の時に大きい病院に相談に行き、そこで紹介された北療育医療センター城南分園を訪れた。そこで最初の診察時に『この子は一生歩けないかもしれません、とに
かくリハビリしましょう』と告げられた。帰りの電車の中、涙ぼろぼろだった。 その後リハビリの甲斐あって何とか歩けるようにはなった。ただ知的にも問題があるのがわかり、世田谷区総合福祉センター療育通所に変更、その後嬉泉めばえ学園、学齢期には青鳥特別支援学校と、通所&通学の日々が続くことになった。

 通所通学での苦労というと、めばえ学園の頃はたった20分くらいのバスが乗っていられなかった。途中で大泣きしてしまうのだ。そこで継続して20分乗るのではなく、ちょこちょこ乗り換えで気分を変えるのはどうかなと、バス電車をわざわざ乗り換えて遠回りして通った。
 また駅前のマクドナルドに入らないと大騒ぎになって固まってしまうので、毎日行き帰りにジュース一杯だけと決めて入ったり、めばえ学園のブランコが大好きで園庭のブランコに乗って帰らないと大変なので、毎回帰る前に回数を決めて乗せたりした。 ブランコ時の数をカウントするノンたんシリーズの『おまけのおまけの汽車ぽっぽ〜♪』
は、大人になった今でも娘の入浴時の定番だ。

 そして久我山分校小学部に入学。スクールバスでの通学はとにかく時間との戦いだ。学校から遠いので乗り遅れると大変である。
 小学部低学年の時、行きたくなくて玄関で固まってしまうのが、多い時で週3回あった。当然、自力通学になるが、私は車は運転しないので電車&バスで片道1時間送迎はきつい。だが、わがままを決して許さず、泣こうとわめこうと根性で学校まで送って行った。
 家にいられると大変、というより、ここでわがままを通したら本人がもっと増長するかもしれない、それだけは避けたかったから。
 “最初からまるっきり拒否するのではなく、ある程度受け入れて、なおかつ本人が納得できるよう工夫する”“あいまいな態度はわかりにくいから取らない”“どうしてもだめなものは、本人がいくら頑張ってもはっきり拒む”その三点がこの頃の私の考えの根底にあったと思う。

 ところで冒頭の飲食物へのこだわりだが、めばえ学園通園時にはすでに出ていた。食べられるものだけならともかく、食べられないものまで口にする。親としてはたまったものではない。お風呂のお湯、プールの水、街路樹の葉、お風呂の石鹸、トイレ消臭剤、義母の飲み薬・・・。
 また、そのままゴミ箱に捨てられてしまった飲食物は数限りない。お茶の葉、コーヒーの粉、しょうゆ、ごま油、ドレッシング、ポン酢などの調味料類、アイスクリーム、クッキー、おせんべいなどのお菓子類。また冷凍室のフリージングしてあった生肉、野菜室に入っていたほうれん草、春菊、長ねぎ、キャベツ、トマトなどなど。
 人に話すと驚かれるが、つい最近まで我が家の冷蔵庫には鎖を巻き、その上、鍵がかかっていたのだ。冷蔵庫の牛乳ひとつ出すのにも、鍵をあけなければいけなかったのである。
 この時期のいつだったか、初めて救急車なるものに乗った。娘がいつの間にか塩素系漂白剤に手を出して、大騒動になったのだ。トレーナーはぶちぶちに漂白され、空っぽのボトルが転がって、口の周りは塩素のにおいがぷんぷん。だが実際に飲んだのかどうかわからない。言語でのコミュニケーションが取れないのだから。
 夜の真っ暗な病院の待合室で待機していた時、壁に一枚のポスターが貼ってあった。
『赤ちゃんの誤飲に注意』
何とも皮肉なポスターだったが、私は、そんなこと言われたって・・・と悲しかった。

 今思い返すと、一番大変な時期だったのは小学部6年の時だったろう。
反抗するのに、わざと失禁するのを覚えてしまい、多い時は1日2回もコインランドリーの乾燥機に走った。下着が30枚ではぜんぜん足りなかったのだ。思えばあの頃は、何を言っても『やらない!!』『行かない!!』の繰り返しだった。 もっと私をよく見てよ(怒)!! ということだったのか・・・。親としては、そんなアピールの方法取らなくても・・・と思うが。でも本人なりに知恵を絞った結果なんだろうな。
 とにかく、その頃の担任やわんぱくスタッフには相当迷惑をかけたと思う。そして自分も、あの頃よくお付き合いできたなあと今更ながら感心する。

 こうして過去のこだわりや騒動のいろいろを並べてみると、職員の言ではないが、やはりお姉さんになったと実感する。成長した今でも、同じ食べ物にこだわる、決まった服しか着てくれない、日常生活のパターンを崩すと本人に納得させるのに大変、などの苦労はある
けれど、冒頭の、性格おだやか、パニックはたまにしかないというくだりは、以前ならとても想像つかないこと。
 今現在、自閉症児の子育てに大変な思いをしている若いお母さん、ゆっくりだけど、子どもって成長するんだよー。

  

無事定年を迎えました!

 2009年4月からは嘱託という形で残ることになりました。ひかりのスタッフとして働き、短期入所やケアホームの立ち上げを目指して頑張りたいと考えています。
 わんぱくクラブの発足が1987年ですから22年がゆっくり流れたような気もしますし、駆け抜けたという感じもします。不思議な感覚です。
 1993年に世田谷区から補助金をもらうまでは、何時つぶれてもおかしくないわんぱくクラブでしたが、現在はNPO法人となり、様々な課題を残しながらも昔に比べれば安定した状態で若い世代にバトンタッチできて良かったと思っています。

わんぱく最優先の22年

 スタッフ全体の責任者という立場を離れて1ヶ月になります。ずいぶん気持ちが楽になり、緊張していたんだなあと自分でも驚いています。どっぷり浸かっていて見えてなかったものがこれからは少しずつ見えてくると思います。
 ゆっくり過去を振り返り、未来を見据えて、今何をすべきか良く考え行動したいと思っています。家族には申し訳ないと思いますが、わんぱくクラブで明け暮れた22年は充実していました。遅ればせながら少し家の事をと思っても、出番が少なくなっています。
 それもいいか。

歴史は繰り返す・・・

 わんぱくクラブの前身である世田谷幼稚園学童クラブの指導員時代のことを思い出しています。高学年の子どもたちにも学童保育が必要だと考え、OB会のわんぱくクラブを結成したのは1985年のことでした。
 もう時効だと思うので公表できますが、OBで4年生の子どもたちが10数人いましたが、毎日一緒に活動していました。50人余りの子どもたちが、元本部のあった場所で生活し、スタッフは父母がお金を出し合ってアルバイトを雇っていました。あのまま5年生、6年生と人数が増え続けたらどうするつもりだったのか。2年後、世田谷幼稚園学童クラブはなくなり、わんぱくクラブは独立したので、その問題は考えずにすみましたが・・・。今のひかりの状態に似ています。「歴史は繰り返す」ですね。
 わんぱくクラブとして独立し、中学生になっても高校生になっても学童保育が必要な子どもたちがいて、学年延長は続いていきました。その場所が必要な子どもがいて、必要だと考える大人がいて、支援しようという大人がいて、わんぱくクラブは続いてきました。そして、いつも先のことは余り考えてない割には、何とかなってきたというか、何とかしてきました。それを集団でやってきたというのがすごいと思っています。

わたしはわたしらしく、あなたはあなたらしく

 私が出会った子どもたちは、みんな個性的で魅力的でした。多くはまだわんぱくクラブに在籍しているのが、また嬉しい。
 私の好きな言葉は「自由」。私は、何者からも自由でありたい、常に自分らしくいたいという思いがとても強くあります。子どもたち、スタッフ、父母、みんな「自分らしく生きたい」と思っていると私は考えています。その人らしさを大事にし、持っている力を最大限引き出し、生活の中でその力を使えるようにすることが私の仕事だと考え、ずっとやってきました。

いくつになっても人は成長する!

 以前わんぱくクラブはスタッフの誕生会をして、誕生カードも作っていました。あまりに人数が増えて、いつのころか止めてしまいましたが、私の手元にはたくさんのカードがあります。取り出して眺めてみると、たくさんの人に支えられてここまで来たということを実感することができます。カードに貼られている写真で、子どもたちの成長振りも見ることができます。
 わんぱくクラブがいいのは、長い期間にわたってメンバーと付き合えることです。小学校1年生から社会人になり、20代、30代になるまで、その成長の様子をみることができます。
 ひかりの活動に参加していると、高校生を卒業すると急に大人になって、私たちスタッフと対等に仲間づきあいをするようになるメンバーの姿を目の当たりにすることができます。「ひかり」の醍醐味はここにあると思います。ひかりのメンバーとは10年以上の付き合いの人たちがたくさんいます。いくつになっても人は成長するということを実感できるのは幸せなことだと思います。
 子供たちを信頼し、スタッフを信頼し、父母を信頼し、支援者を信頼し、行政はちょっと?ですが、私もますます研鑽を積み重ねて成長していきたいと思っています。

私とわんぱくクラブ


「わんぱくクラブを支える会」 クボタ

「わんぱくクラブ育成会」の成長を見上げる思いで

「わんぱくクラブ育成会(育成会)」がNPO法人になった2000年3月に、賛助会々費を払う以外に広報や活動支援に役立てるといいな、という数名で立ち上げた任意団体が「わんぱくクラブを支える会(支える会)」です。
その数名の内訳は・・・クラブのこども達の学習指導に関わったY.S さん、組織活動経験が豊富なA.K さん、お勤めの休日に保育ボランティアをしていたY.Y さん、クラブの表現活動講師をしてくれるN.Y さん、女優業・講演などで活躍するO.M さん、バザー後の処分品を「置き場があるから任せて」といつも引き受けてくれたH.M さん、そしてクラブのOB保護者である私でした。

クラブと私の出会いは・・・長男が小学4年になる1990年に世田谷区に引っ越して来ましたが、前住地の公立クラブ役員として世田谷区で開かれた東京都学童保育研究集会に参加した際に、わんぱくクラブがコーヒー販売などをしていて、高学年保育もする共同保育としての存在を知りました。入所前の下見に行った時、近藤先生と手伝いの方と数名のこども達(それでほぼ全員)が太子堂2丁目の遊び場に来たのと ばったり出会ったことを憶えています。長男が加わっても人数は一桁・・・でもそれがなければ活動をやめていたか・・・とは後日談。

わんぱくプレス発行開始が1991年…最終ページ「賛助会コーナー」を担当しました。クラブが駐車場ビルの一室から世田谷幼稚園々庭のプレハブ建物に引っ越した1992年に初のコンサート・・・私が利用した産休明け保育所のコンサートを紹介したのが発端と里中理事長に言われますが、会員が増えて得意分野が広がってきた時機にも恵まれたと思います。

長男は小学校卒業で卒所し、私はみなし法人時代の「育成会」に外部理事として参加。また長女が区内私学の共同保育学童クラブに所属していたので学童保育父母会連絡会の活動を続け、それらの関係者も「支える会」に参加してくれたのです。「支える会」立ち上げ時には「育成会」の方々が苦労している部分を補えるようにしたいと意気込みましたが、「育成会」の成長はめざましく、大きく育った木を下から見上げる感がします。

これらの経験は、子育てしながら会社勤めを続けて得たわけですが、IT漬けの仕事を5年前に辞めて介護・社会福祉の勉強・資格取得に向かう原動力の一つにもなりました。「育成会」の「将来を考える会」の方々と作業所・グループホーム他を運営する社会福祉法人を見学したことがありますが、これからも皆で考え歩んでいくのに付いて行かせてもらえたら・・・と思います。

そんなわけで「支える」というより「共に歩む」的に、保育に参加、バザーやコンサートに協力するなどの他は、毎月のプレス付録「支える会から」を発行して広報活動を少しお手伝い、という現状ですが・・・その紙面にあるように、得意方面、その他アイディア等のお知らせ歓迎です! 
会員資格は「賛助会員の中で活動や提案に関わる人で年会費1000円を拠出する人たち」です。会員希望の方もe-mailならeieskei-wanpakusasaeru1259@yahoo.co.jpまで、どうぞよろしく!



 康介は、2歳2カ月の時、主人の転勤先のチューリッヒに着いた翌朝、突然原因不明の脳症を患いました。担当のドクターから脳の9割の細胞が損傷を受けていると説明を聞きました。3週間意識が戻らず、やっと目が開いて、文字通り舞い上がって喜んだ直後、康介が、「おかあしゃん」とも言えないし、呼ばれても返事もできないし、歩けないし、座れないし、首も据わっていないし、……、康介に違いないのに、それまでの康介とは全く違うことがわかりました。
でも、大好きだったトーマスやのりものはやっぱり大好きで、前のめり気味の性格もそのまま。心の部分はそのまま変わらなかったようです。

 前のめり気味の性格が幸いしたのか、体のどこかが覚えていたのか、発症後半年も経たないうちに、不安定ながら座れるようになり、立ち上がって少し歩けるようにもなりました。ただ、転んだ時にうまく手で支えられず、唇を噛んだり顔をすりむいたりするのですが、当時はそのうち上手に手をつけるようになるだろうくらいに考えていました。

 同じころ、てんかんの発作が現れました。障がいについても病気についても何も知識がないので、最初は康介がピクッと不随意な動きをしているのを見ても発作なんて思いもよらず、現地の病院で作業療法を受けている時、ピクッと動いた康介を見た療法士さんが慌ててドクターに知らせ、大変な事だと初めて知ったのです。すぐに投薬治療が始まりましたが、それから帰国を経て小学校入学前までは、てんかんに一番苦しんだ時期です。薬の副作用がひどく、のどに痰が絡んでいつも苦しそうで、横になると気道が詰まるので夜中じゅう抱いて眠らなくてはいけなかったり、力が入らなくなって歩けなくなってしまったり、帰国して副作用が少し治まってからも、歩いている最中に急に発作を起こして倒れ前歯が折れたり、どうしてやることもできず泣いてばかりでした。

 4歳になる少し前から2年半の間、発作を抱えながらも週5日療育に通いました。康介も担任の先生や同年齢の子どもたちと過ごす時間に刺激を受けて、いろんな表情を見せてくれるようになりましたが、むしろ救われたのは私のほうで、先生たちに出会えたことで、「助けてくれる人がいる」と分かり気持ちが少し軽くなりました。

 特別支援学校(当時は養護学校)の小学部に通うようになって、少し体力もついたのか日中起きているときはあまり発作が起こらなくなりました。とにかく楽しく学校に通ってほしいという親の希望以上に、学校大好き、先生大好き、友達大好きの康介は、授業はもちろん、行き帰りのスクールバスさえ楽しそうに、ほとんど休むこともなく学校に通いました。2年生になる時わんぱくクラブに入会したのも、長い夏休み、私が頑張ってつきあっても毎日退屈している康介に、学校以外にも友達と楽しく過ごせる場所が欲しかったからです。

 学校でもわんぱくでも、いつも機嫌よく過ごしていた康介ですが、中学生になった途端にまさかの反抗期がやって来ました。康介は、先生や私の誘導で身の回りのことを行いますが、トイレに誘っても、食事の声かけをしても、いちいちベターッと床に突っ伏して、「行きたかねーよ!」の戦闘態勢…。薬の加減やホルモンのバランスなども原因だったかもしれませんが、美術など手先を使う苦手な授業の時は寝てサボるし、給食も自分でうまく食べられないことに怒って食べ始めはテーブルを蹴って暴れるし、と、小学生の時には考えられない態度が数年続きました。今でこそ、わかりやすい反抗だったなと苦笑いできますが、真っ只中にいる時は、トイレに連れていくだけで15分も大汗をかくので、やはりイライラが募りました。

 中学3年生の時、高等部の入学相談の最初に「将来どのような生活を送りたい(送らせたい)ですか?」という問いがあり、「これから高校生になるのに、その先のこと…?」と疑問に思いましたが、将来のために必要なことを考え始めるきっかけにもなりました。障がいの重い康介が訓練や練習を繰り返して何かできるようになるとは考えにくいし、本人も私もそんな訓練は願っていません。康介の生活を広げるためには、たくさんの人に関わってもらうことが必要です。介助してくれる人も介助される康介も快適でいられるように、気持ちを伝えられることと、穏やかな性格を身につけることが必要なのかなと考えています(そのための手段はわかりませんが…)。

 最後に。ずっと心に引っかかっていたことがあります。私や夫、二人の妹達は、康介の家族でいることで大変なことや我慢することもありますが、それ以上に康介のおかげで得るものもたくさんありました。でも、康介本人は障がいによって失ったものの方がやはり大きいのではないか、と、いくら考えてもプラスに転じる答えが出てきませんでした。

 高等部の卒業式の日、担任の先生が涙を流してクラスの一人一人に話しかけてくれた時、これまで康介に関わってくれた学校の先生やわんぱくのスタッフやたくさんの人が、どんなに康介を大切に思ってくれているかに改めて気がつき、みんなにこんなに思われている康介は、できないことだらけでもきっと幸せなんだと初めて納得できました。
長年のもやもやした気持ちが整理されて、とても爽快なこの頃です。

大畑 篤子

子どもとともに歩んできた


2010.2  こうきの父

平成12年11月22日に、こうきは私たち夫婦の次男として産まれてきました。
色白で目鼻立ちのキリッとした男の子で、赤ちゃんの頃はほとんど手のかからない子でした。しかし、1歳過ぎても言葉が出ず、歩くのも遅く1歳4ヶ月過ぎてやっと歩き出しました。

1歳6ヶ月検診で、名前を呼んでも振り向かなかったので、耳鼻科受診を勧められ、滲出性中耳炎と診断されたので、チューブを入れる手術もしましたが、一向に聴こえている形跡はなく、その頃から落ち着きのなさが顕著になっていたこともあり、精神内科を受診したところ、脳波の乱れもあり、知的障害・自閉症と診断されました。
自閉症という言葉を知らなかったため、家に帰り、自閉症を調べたところ、大変な障害であることが分かり、愕然としたことを覚えています。

こうきが3歳になる頃、2歳上の長男が脳腫瘍(脳幹部の橋グリオーマ)になり、その数ヵ月後に母が脳出血で倒れ、今振り返ると、当時は時間的にも経済的にも相当大変な中、夫婦で必死に奮闘していたように思います。
こうきも保育園に入り、とても良い先生に巡り会い、偏食も克服し、周りのお友達と仲良く過ごす楽しさも学んでいったようです。

長男は残念ながら亡くなり、母も左半身に麻痺が残っていますが、こうきが私たち夫婦を励まし、元気づけ、癒してくれ続けています。

そして青鳥特別支援学校に入学して間もなく、わんぱくに入りました。高校生や中学生の大きなお兄さん・お姉さんやスタッフのお兄さん・お姉さんに囲まれ、迎えに行くといつもニコニコ楽しそうに抱きついてきます。普段はなかなか連れて行けない公園に行ったり、電車に乗ったり、親とは違う楽しさを満喫しているようです。

まだまだ足りないことだらけのこうきですが、私にとっては、大事な子供であることに変わりはありません。私を成長させてくれる存在でもあります。

子供は親を選んで産まれてくると言われますが、こうきも私たち夫婦ならしっかりと育て上げてくれるだろうと、私たち夫婦を選んで産まれてきてくれたと思っています。

こうきも4月より4年生になりますので、同性としての父親しかできない役割が大事になってくると思っています。
そしてわんぱくにも、父親として、色々な活動に参加していきたいと思います。

こうきの存在

    22年間ずーと大変 でも幸せ

                                              保科 光子

 ご存知のように我が家には、男の子ばかり4人、(先日亡くなりましたが犬までオスでした)長男と三男に知的障害があります。わんぱくクラブで唯一兄弟で通所しています。長男はプラダーウィリー症候群、22歳、三男はダウン症、18歳になりました。長男が生まれた22年前の記憶を手繰ってみると・・・・ヒロは、大難産の末に仮死状態で産まれました。やっとあげたうぶ声は「ふにゃ」そのままNICUに一直線、即入院となりました。そして3日目に運命のドクターからのお告げがあり、「プラダーウィリー症候群の疑いがある」と言われたのです。知的レベルは、重い子もいるが普通の子もいるとの話にのんきな母は、「ならばうちの子は普通の子だ」と思うのでした。これが大きな勘違いと後で思い知らされます。

 1ヶ月半の入院から戻るとこれが大変、低筋力が特徴の一つであるのでミルクを吸う力がない、50CCをのむのに30分もかかりミルクを温めなおさなければならない風でした。首が据わったのが7ヶ月、お座り12ヶ月、歩くのは何と4歳でした。公園で遊ぶ同年代のお友達が歩いても「僕 いざる人」とばかりに全く歩く様子は見せませんでしたが、1年半後に産まれた弟が歩き出すと、急に歩く気になり、兄弟の力を感じました。そしてそのころから、この病気の1番の特徴である肥満が始まりました。与えるものは少量でも、運動する力がない・代謝が悪いことがあり少しづつ太っていき、現在に至っています。

 小学校・中学校は今で言う「特別支援学級」に通いました。通学に親が付いているうちは、さすがに大きな問題は起こりませんでしたが、3年生になった時から1年生に入学した弟と2人での通学となると我ままで弟を困らせたり、掃除が嫌でクラスのトイレにこもったり、いろいろやってくれましたが、学校も学童クラブもBOP大好きで楽しく通いました。わんぱくには中学から通いました。わんぱくへの通所を含め、中学・高校は完全に一人通学となり、町中にあふれる誘惑に勝つことは出来ず、「プラダウィリーは満腹中枢がない・いつも飢餓状態」ということに由来する行動が顕著となり、コンビニからおにぎりを失敬してしまう・母の財布から持って行った1万円を母の友人に目撃されると母に通報が行くと思い1万円札を捨ててしまったこともありました。

 朝食を食べても通学途中で立ち食いうどんを食べることもありましたし、コンビニでお弁当を買って世田谷公園で食べていたこともあったようです。圧巻は、救急車のサイレンが近いと思っていると、ピンポーン。担架と毛布を抱えた人が「患者はどこですか!!」にどんな顔をしたらよいのか頭が真っ白になる母でした。当然携帯は没収となりました。さらに些細な言葉の行き違いで怒り出すと、「オニババァ」と言いながら外に飛び出ます。ご近所の方はもうなれたかも・・・そのようなことから自立に向けた一人通学は無理と判断、送迎が復活しました。時間的にも、体力的にも大変でしたが、再びヒロと二人だけの時間を持つことができました。

 ここまで書くととんでもない子のようですが、これも一面、そしてもう一面をもつヒロがいます。わんぱくや学校で友達に八つ当たりで抓られ、痣を作って帰ったとき、「○○君は調子悪いんだよ。可哀そうだね。僕だと怒らないからするんだね。僕でよかった」と言ったのです。仲間の気持ちを思いやる力が付いたのです。近所を一緒に歩くと、あちこちから「保科く〜ん」「ヒロちゃん」と声がかかります。何がきっかけだったのか母が知らないうちに多くの方と知り合いになっています。その後の母は挨拶をする方が増えることになります。多くの方に見守って頂くことになる彼の特技です。母の日には、花屋さんが開くのを待ってカーネーションを買ってきてくれる優しいところもあるのです。

 20歳になって、投票に行くのも楽しみになりました。自分の思う人の名前を練習して行きます。今年はわんぱくの旅行と重なったため期日前投票も経験しました。いろいろなことを理解しわかっていますが、気持ちのコントロールができにくい。口も達者です。気に入らなければ120KGの大きな体がびくとも動きません。周囲の人は扱いにくいだろうなと思います。

 昨年彼は「すぎなみすだちの里」で1週間のショートステイを体験しました。母の入院のためです。短期間のためホームシックにもならず、楽しく?過ごしたようですが期間がもっと長かったらどうであったか、トラブルがあったときに「もう嫌だ!帰る」などとわめいたのではと想像します。そろそろ親離れ(本当は子離れ)を進めていく必要があるのではと思っています。しかし、問題行動の多いプラダーウィリー症候群の彼を正しく理解してくれるところと人は少なく、親なき後のことを考えると頭を抱えてしまいます。彼の居場所つくり、今後の母の大きな課題です。
 これからも障がいのある子の母として「正しく・強く・たくましく・できれば少しだけも美しく(でも心は美しい・誰も言ってくれないので自分で言う)」ありたいと思います。  
          ☆弟のことはまた機会ある時に書かせていただきます

☆支えられて(S.T)
☆こうきの存在(こうきの父)
☆指導員学習会報告から(AI &BAMBOO) 
☆22年間ずーと大変 でも幸せ(保科光子)
☆子供とともに歩んできた道(大畑篤子)
☆「わんぱくクラブ」の成長を見上げる思いで(クボタ)
☆自閉症はこだわるのだ!(くわこ)
☆私とわんぱくクラブ(近藤すみ子)

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2009.5  近藤すみ子

ひろば

    ◆◆  投 稿 一 覧  

みんなの・・・


  ここは会員、指導員、ボランティアの皆さん、わんぱくの活動
  を応援して下さる方々、みんなが参加できる「ひろば」です。

 
2009年〜2010年9月掲載》



      指導員学習会報告から 
 
      わんぱくクラブの指導員は定期的に学習会を開き、
        よりよい保育を目指して努力しています。例えば
        今回はこんなテーマで行われました

                                                AI

 今回の学習会は「感じること」をテーマに行いました。日々、保育する中で、メンバーの具合の悪さにいち早く気づくスタッフとそうでないスタッフがいます。また、集団で保育する中で「ここが大事」と思うスタッフがいる一方、そう感じないスタッフもいます。子どもやメンバーの発達の瞬間を見逃さず、援助のタイミングを感じ、適切な援助をする為に、「かんじること」って何だろうというところから学びました。

 まず、スタッフ一人ひとりに自分の身体の感じ方について様々な体験をしてもらいました。触覚過敏の感覚、聴覚・視覚の感じ方など、日頃改めて意識しない感覚を感じてもらい、わんぱくメンバーの感じ方に思いを寄せてもらいました。また、集団で相手を意識し、相手の思いを感じとり、次の人に伝えるといった体験もしました。

 全体のディスカッションでは、子ども達にどのような「感じる力」を育んでもらいたいか、またその為にはスタッフの援助をどうしたらいよいかを話し合いました。児童、学齢児、ひかりと年齢層の幅広いスタッフから積極的に意見が出て、それぞれの年齢における援助の大切さが話し合われました。その後のグループディスカッションでは、スタッフ自身の「自分の感じる力を伸ばす為には」というテーマで話し合いました。「相手を良く見る」「人の意見を取り入れる」「目を見て挨拶する」などたくさんの意見が話し合われました。今後の保育に生かしていければと思っています。

                                                BAMBOO
                      
 今回、児童・学齢児・ひかりのスタッフとの合同ということで、いつもの学習会とは違い、とても新鮮な学習会でした。ただ皆で勉強するのではなく、身体を使って五感をフルに使い、体感するゲームなど普段意識しない感覚を再認識するとてもいい機会でした。「かんじること」はとっても難しいテーマで、子ども達だけでなく、われわれスタッフも考えさせられる内容です。「子ども達に感じる力をどう育んでもらうか?」「われわれスタッフはどのように援助するのか?」など自分に置き換えて考えると自分にとっての課題、学びも多くありました。「気付いたこと、感じたことを素直に伝える」単純なことのようでなかなか大人同士でも難しいことですが、子どもたちが元気に楽しく生活する上でとても大切なことだと思いました。
 メンバーと一緒に過ごす上で「今何を感じているのだろう?」「自分だったら○○だけどこの子は××なのかな?」と今まで以上に意識することが出来ました。「子どもは大人を見て成長する」ということを意識して今後も保育していきたいと思いました。