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ひろば

  ◆◆ 投稿一覧(2014年) ◆◆

 卒業によせて(2015.04)
 きょうだいの気持ち(5)(2014.11)
 きょうだいの気持ち(4)(2014.07)
 子供とともに歩んできた道(2014.05)

みんなの・・・

  ここは会員、指導員、ボランティアの皆さん、わんぱくの活動
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卒業によせて

 9年間お世話になったわんぱくクラブ駒沢を卒業することになりました。

 シュンは脳性麻痺で身体が不自由ですが、わんぱくクラブでは周りのこども達と同じように過ごす事ができました。公園に行けばスタッフが滑り台の上まで抱いて上がり一緒に滑り下りたり、大縄跳びで抱いて跳んでもらったり、駒沢公園のペアペア自転車は横から支えて座らせてもらったりだからです。小学生の頃『シュン!今日はどこの公園行く?新町?駒沢?三島?』と3本の指を立てたスタッフの問いかけにシュンがスタッフの1本の指をさし『みしま!』というと『じゃあ三島公園行こう!』という感じのやりとりが多くありました。その頃から伝わる嬉しさで言語コミュニケーションはめきめきと上達しました。

 夏休みのクラブの施設合宿、秋の合宿も毎年楽しみにしてました。泊まるのはもちろん嬉しいのですが、一番の楽しみは銭湯や大浴場です。ふだん家族旅行ではシュンを旅館やホテルの大浴場には連れていけません。立つ事も座る事もできないので父親一人では難しいです。でもわんぱく男性スタッフはシュンを抱きかかえて入れてくれます。わんぱくメンバー大勢で入る大きな湯船は本当に楽しく嬉しかったのだと思います。去年の秋合宿から帰ってきた時、シュンが『来年もまた行くよ!』と嬉しそうに言ったのに『来年シュンはわんぱく卒業だから行けないなぁ』と返した時のさびしそうな顔を思い出します。

 音楽遊び、夕食会、お楽しみ会、土曜活動など含めて、わんぱくクラブはシュンの生活に欠かせないものとなってました。この3月の高校卒業とわんぱくクラブの卒業をシュンがどう思っているのかなと考えます。最近『学校おしまい。わんぱくおしまい。』と時々つぶやきます。今の生活が変わるのだという事を自分で納得しようとしてるのかもしれません。でもシュンは基本前向きな性格です。卒業後の通所先が決まってからは『実習所行くよ!』ともつぶやくようになりました。卒業後の通所先は、ひかりのメンバーや元わんぱくクラブメンバーも通っている施設なので顔見知りがいます。『バス乗るよ!』とシュンの方が私より上手に切り替えができるのでは?とも思います。

 職員やアルバイトスタッフの皆さま、会員の皆さま、わんぱくクラブ育成会を支えてくださっている皆様、今までお世話になりありがとうございました。
 シュンと私たち家族はわんぱくクラブで過ごした時間を大切な思い出とし、これからも明るく充実した日々を送っていきたいと思います。  
                   (S.A. 「わんぱくプレス」2015年3月号より転載 2014.04)



きょうだいの気持ち(5)

 こんにちは。4歳年下の妹が、高校1年生から約20年間、わんぱくにお世話になっています。私は障がい者関連の団体に勤めて14年目、今は福祉園で支援員をしています。

 小さい頃の妹はかわいくて(今もですけど笑)、私も幼いながら、親と同じ目線でかわいがっていました。両親が私にも愛情を注いでくれたし、ダウン症の説明もしてくれたので、時々聞く親を取られておもしろくないとか、きょうだいの障害を受け入れられないとかいうことは、ほとんどありませんでした。

 妹が小学校に通っていた頃から、障がい児学級の先生とは私も関わりがあり、その先生の紹介で、大学時代に小学校で介添のアルバイトをしたことが、この仕事に就くきっかけになったので、妹は私の人生において大きなウェイトを占める存在です。

 とは言え、就職して家を出てからは、年に何回か会うくらいになってしまいましたので、妹のことは、ほぼ100%両親が見ているのが現状です。そんな中で妹も40 歳近くなり両親も70 歳を越え、親が妹を見られなくなった時にどうするかという問題は遠くない将来に直面するわけですが、現時点では答えは出せずにいます。

 私自身の現状として、昨年結婚し、ちょうどこの9 月に第一子が誕生予定です。妻も当面はフルタイムで働く予定なので、子供が幼いうちは自分たちのことで精一杯なのかなと思いますし、まだ数年は両親が妹を見ていくことができる見通しがあります。

 ただ5年、10年経った時に、両親と妹の状況がどうなっているかわかりません。自分たちの人生設計も踏まえて、今から考え、話し合っておく必要があると思います。

 親には「妹を見てほしい」と言われたことはありません。「自分たちも子どもの世話にはならない」と言っています。余分なプレッシャーは感じずに済んでいますが、妹や親が望む生活をする手助けはしたいと思います。妹の身の振り方を考えるにあたって、きょうだいであると同時に支援員という仕事をしている者として、妹が何を望むか、妹にとってどうすることが一番いいのかを第一に考えなくてはなりません。現在通っている福祉園で機織りをし、週に一度わんぱくの仲間と過ごすことが一番とすると、私が家族と経堂に一緒に住んで、ヘルパーなどを利用しながら見ていくのがベストかもしれません。

 一方で、可能性として、我々が妹を見ていくのは難しく、やはり入所施設かケアホームに頼らざるを得ないということもあるかもしれません。しかし、施設入所には抵抗があるのも正直なところです。私の勤務先でも、私や妹と同年代の利用者が秋田など遠方の施設に入所していったのを何人か見てきましたが、そうなると会いに行くのも大変になるし、何より妹がその選択肢を望むのかという疑問が生じます。また、福祉園やわんぱくに通える範囲内にケアホームができ、そこに入ることができたら、家を出る方が妹にとっていい可能性もありますが、ケアホーム建設はなかなか進んでおらず、入るのは困難なのが実情でしょう。だから、チャンスがあれば、両親が元気なうちでもケアホーム入寮に応募した方がいいという話はしています。

 つい先日行った研修で「カスタマイズ型ケアホーム」というものを聞きました。ざっくり言うと、定員20名、一人平均約500万円を出して1億円の補助金と合わせて2 億円弱でケアホームを新設する。個々のニーズに合ったカスタマイズ(壁を防音にする、部屋にカメラを設置する等)もできる。常駐の看護師は置けないが、訪問看護なら利用できる。といったものでした。なかなか進まないケアホーム設置の一助にならないかと注目しています。

 恥ずかしながら不勉強なもので、浅い内容になってしまいましたが、直面する課題に今まさに思案中の気持ちを綴ったつもりです。またこの原稿を書くことで、今まで妻や両親としっかりとは話せてこなかったことについて、話し合ういい機会になりました。

 きょうだいとしては、今後とも妹をよろしくお願いします。支援員としては、障害のある人の生活を支えるために、手を携えて取り組んでいきましょう。
           (前田竜太 「わんぱくプレス」2014年9月号より転載 2014.11)



きょうだいの気持ち(4)

 この度、姉弟として一言書かせて頂くにあたり、幼少〜小学生ぐらいまでのことが、パッと頭に思い浮かびました。
 私が生まれてから、と申しますより私の記憶が残っている30 年ほど前の幼稚園児の頃の話からになりますが、当然のことながら、常に私の生活の中には4 つ年上の姉の存在がありました。そこには、アレルギーによる食事制限があり、毎週国立小児病院に通い、特殊学級に通う、ほかの人のお兄ちゃんやお姉ちゃんよりは、ちょっと弱い姉がおりました。

 私自身、弟というよりは姉と対等もしくは少しお兄さんの立場、といった感覚で幼稚園児のその頃から接していたように思います。両親にとっては、自分を上手く表現できないと言いますか、伝えたいことを言葉にして上手く伝えられない姉や、自分でできることが限られる姉の面倒を常に見ていなければなりませんでしたので、苦労したと思います。また、卵・大豆・牛乳等々のアレルギーもありましたので、日々の食事や休日にどこかへ出掛けた時にも、両親は本当に大変だったと思います。

 お腹が空いたからコンビニで何か食べる物を買って来よう、今日は遅くなったからお惣菜かお弁当を買ってきて食べよう、出掛け先でどこのお店でもいいから入って食べよう、というわけにはいきませんでしたので・・・。両親にとっては苦労の絶えない日々ですが、弟の私には何ら苦労は無かったように思います。むしろ、姉の存在があるおかげで、両親や親戚、近所の方々からは、より気にかけてもらっていたからです。

 近所の方々からは、自分のためにお菓子を頂いたり、“偉いね”とか、“優しいね”と声を掛けて頂いておりましたので、子供ですから単純に嬉しく思っておりました。両親からも姉には内緒で自分のために何か買ってもらい、それを台所の片隅で隠れて食べる。休日に車で出かけた際には、途中のサービスエリアで母が姉をトイレに連れて行く間に、父が私にアイスやフランクフルトを買ってくれる。姉には申し訳ないなぁと思いつつも、急いでササッと食べていた幼稚園〜小学生ぐらいまでの日常がありました。姉が行事でお泊りに行くような際には、平日でしたので父が有休をとり、私も小学校を休んで両親と出掛けたことも何度かありました。

 傍から見ると姉を中心に回っているような生活環境に思えますが、多くの人にいつも気にかけてもらっていましたので、弟としてはそのような意識はありませんでした。両親や親戚、近所の方々からより一層の愛情を注がれておりましたので、そこには不自由というほどの不自由はなく、我慢するというほどの我慢も昔から無かったわけです。したがって、姉弟ということで迷惑を掛けてしまったとか、苦労させて申し訳ないとか、親が悩む必要はないのだと思いますし、これから何年、何十年経とうとも、そう思う必要はないのだと思います。私には姉がいて、姉がいたことにより多くの人から気遣いを頂いた、ということが生まれてから続く、私にとってのごくごく当たり前の普通の生活であり、感謝こそすれ辛いと思ったことは無いのです。

 話は変わりますが、私が小学校高学年か中学生ぐらいの時分、姉にとって何が幸せなのか、私には何ができるのだろうと、ふと考えることが時々ありました。姉が一人で好き勝手に出掛けられるわけでもなく、お金があっても自分で自販機で飲み物を買えるわけでもない、いったい私はどうすればいいのか、何をすれば幸せと思ってもらえるのかと・・・。結局、これだという答えは無いのだと思います。できる人もいればできない人も世の中にはいる、人それぞれに価値観や時間の流れがあるようにこうしてあげるのが正解なんて無い、お互い少しでも多く笑っていられればそれでいいじゃないか、なんて勝手に悩んで勝手に肩の荷を下ろしたこともありました。

 私も結婚して、小4、小2、年少の3 人の子どもの父親になりました。
 この子たちが、世の中には当たり前や普通と思われることをできない人もいる、自分よりも弱い人にはちょっと手を差し伸べてあげる、そういう感覚を持った人間に育ってほしいと願っております。それは誰に教えてもらうわけでもなく、自然と日々の生活の中で身に着けていくものだと思いますが、私が子供の頃に両親がそういった環境を作ってくれていたように、果たして自分はできるのか、到底できないだろうなぁ、と改めて親の偉大さを感じております。また、私だけでなく父や母もそうだと思いますが、近所の方たちや親戚、本当に多くの方々に助けられたからこそ、やってこれたのだと思います。いろいろな人に助けられて今の自分があるということも、子供たちには学び取っていってほしいと思っております。
           (石松 晃 「わんぱくプレス」2014年3月号より転載 2014.07)


子供と共に歩んできた道

 わんぱくと出会ってまる18年が経とうとしています。息子のタクヤはもうすぐ26 歳!山あり谷あり谷底ありで語り尽くせないほど色々なことがありましたが、立派に成長してくれたタクヤとたいへんだった当時若さを頼りに必死に向き合ってきた自分に心から拍手を贈る今日この頃です。

 どこの施設、どこの学校に行ってもパニックや問題行動で歴史の1頁に残るような子だったので、「小さい頃たいへんな子は大人になって落ち着くよ〜」という言葉は慰めにしか聞こえませんでしたが、今では現実的になり、育てるうえで経験と積み重ねと、人と人とのつながりを大切にしてきて本当に良かったと思っています。時間はとってもとってもかかったけれど…。

 昭和63年7月7 日に生まれたタクヤは新生児なのに寝付きが悪く、よく泣く子でした。1歳半の時に熱性けいれんを起こしてからは目が合わず、喃語も減り、勝手気ままに動き回わり、思い通りにならないとひっくり返るので育てにくさを感じていました。2 歳の時に自閉症と診断され、最初は全く知識がなく、自閉症児を育てるということがどういうことなのか理解していませんでした。

 睡眠障害と診断され薬を常用することになったのが4歳のころ。毎日決まって午前2時になると泣きわめき家中転げ回るのを慌てて抱きかかえ、家族3人パジャマ姿で車に乗り込み高速を2時間ドライブ。そんな生活が何カ月も続き、主人も私も夜になるのが怖くて心身共に限界でした。そんな時、知人から自閉症を専門とするドクターを紹介され薬によって少しずつ睡眠のリズムが取れ、私たちも安心して眠れるようになりました。あの時ほど睡眠が大事と思ったことはありません。

 睡眠障害と同時くらいに始まったのがこだわり。どこへ行くのも同じ道で、中途半端に容器に残っている調味料や洗剤を捨てまくり、衣替えの時期になる前にシャツやズボンの丈を何段階にも分けて徐々に短く(長く)しないとパニックを起こしていました。中でも一番たいへんだったティッシュちぎりは10 年以上続き、外出先で見付けてはちぎってしまうので、タクヤの気を逸らすのに神経を使いました。それでも諦めずにどこへでも出かけ何でも経験させ、時間はかかっても視野を広げることで、少しずつ少しずつ形を変えながら無くなることを望みました。自閉症児を育てるたいへんさを自覚したのもこのようなこだわりと戦う中で、単にダメといっても何も変わらず、結局は本人の成長なくしては無くならないことを思い知らされたからです。

 就学する頃には、言葉がなくこだわりやパニックが多いタクヤにとって何が大切かたいへん悩みましたが、勉強よりも身辺自立することを大きな目標にし、多くの人と触れ合い共感する心を育てたいと思い、当時の身障学級に入学しました。その時先生から手先が器用で意外と集中力もあるからと勧められたスウェーデン刺繍は今でも続けていて、落ち着く材料にもなっています。2 年生の時わんぱくに入会し、学校とは違った異年令の集団の中で日々の積み重ねと色々な経験が少しずつ本人を成長させ、子どもたちの力によって社会性を養い、より生活力がつきました。

 以前はタクヤと過ごす長期休みは悪夢のようで、外出しても大騒ぎするのですぐ帰ることになってしまいました。でも家では時間が持たずまた外出することの繰り返しでしたから、わんぱくはその悩みから解放してくれて、よき理解者であるお母様たちとの交流は私にとっても大切な生活の一部になりました。

 5年生の後半から始まった思春期には荒れることも多く、大人2人でも抑えられないことがありました。このままでは怪我をすると思い、以前から知り合いだった障がい児を育てる先輩ママに相談したところ、子離れ親離れするには年齢的に最後のチャンスよとアドバイスされました。

 当時は公的支援も十分ではなく、他人に預けることなど考えたこともありませんでしたが、彼女が背中を押してくれたことで、やっとの思いでアルバイトの学生を探す決心がつきました。有り難いことに素直で優しく逞しい学生と出逢い、お互い戸惑いはありましたが徐々に慣れ、兄弟のように触れ合う信頼関係と、「受け入れる」から「働きかける」人間関係を築けたことは本当に嬉しく思っています。いまでも年1回は会いに来てくれるお兄さんは私たち家族の支えです。

 中学生になり、もう1人の学生や事業所と契約したことで行動範囲と人間関係がより広がり、同時期にわんぱくが2つに分かれ、低年齢の子どもが多い駒沢で過ごしたことが多感な時期のタクヤを心身共にバランス良く成長させてくれました。一生お世話されるタクヤと思っていましたがその子その子のペースに合わせ散歩する姿には感動しました。荒れた思春期を乗り越えたことで高校生活はかなり落ち着き、1学期間の寄宿舎生活はタクヤにとって自信という財産になりました。

 グッと大人になったタクヤは現在福祉園に通っています。そこにも幼いころからわんぱくで一緒に過ごした仲間がいます。長い間に培われた人間関係により一瞬で心和む仲間がいることは掛替えのない宝物になりました。今ではひかりの活動と年1回の旅行や週末のグループ外出を楽しみにし、親にはあまり見せないような満面の笑みで参加している姿にはちょっぴり妬いてしまいます。

 タクヤのこだわりやパニックとあれだけ向き合ってきたのに、どれもいつから無くなったのか思い出せず、現在てこずることもなく過ごせていることに驚いています。行事のたびにどこにいるのかわからないくらい落ち着いてしまい、家でもソファーでじっと過ごしているのを見ると??と思うこともありますが、どこへでも誰とでも出かけられ素直に育ってくれたことに感謝しています。「タクヤくんの笑顔に癒され元気を貰いました」のお言葉は何より嬉しく思います。

 溢れ出る涙に思わず車のワイパーを回してしまった自閉症と診断されたあの日、小学1 年生の 運動会で普通学級の子どもたちと踊った勇気100%、泣いているわが子に後ろ髪を引かれる思い で預け家に帰れずうろうろしていた入会初日、お兄さんの目を盗んで逃げ出し見つかったバッティ ングセンター、今はみんなみんな懐かしい想い出。

 数年前から店の仕事が増えてなかなか一緒の時間を作れず申し訳ないけれど、タクヤはとっくに親 離れしたかったのに、1 人息子の子育てに夢中になりすぎて子離れしていないのは私の方でした。 タクヤを通して出逢った全てが色々な事を学ばせてくれて成長できた私。本当に生まれてきてくれて ありがとう。これからもうるさいママだけどよろしくね、タクヤくん!!

 最後になりますが、私たち親子が今日まで歩んでこられたのも、根気よく見守り続けてくださっ たスタッフと温かい父母の皆様のお陰と感謝しております。障がいの有無に関わらずわんぱくに関 わる全ての人が支えたり、支えられたりしながらみんなが成長できるわんぱく、これからも親子 共々よろしくお願い致します。
            (母・ユリコ  「わんぱくプレス2014年4月号より転載 2014.05)

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