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みんなの・・・

☆KAZUとの生活(Mママ)
☆新幹線とおじいちゃん・・飛び出し名人(長嶋侯子)
☆和亮がくれた大切な宝物(徳永登美江)


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 KAZUとの生活 (2011.2)
                                            Mママ    
1.プロフィール

KAZU ・・・現在、区内作業所に通所、来年1月に成人式を迎えるダウン症。
父、母、おばあちゃん、5歳上の兄の5人家族。
地域の学校の心障学級に通い、青鳥養護を卒業。
性格は明るく、ひょうきん。ウルトラマンとお笑い大好き。
幼児期は多動、学童期いたずらは数しらず。発語はほぼ1語文。言われたことは、何となくわかる。コミニュケーションは発語がない割にはとれる。
わんぱくには、中学から駒沢に入り、高校で三茶に移る。

2.生後

KAZUは次男としてうまれました。兄とは5歳違い、待ち焦がれた次男の誕生でした。生後すぐにダウン症を指摘され、なぜ我が子が、と深い悲しみが襲ってきたのを覚えています。小さめでしたが、通常の産婦さん同様に退院は出来ました。生後1カ月肺炎を起こし当時の国立小児病院に緊急入院となりました。主治医からは、2〜3日が山場と告知され、余りに短い命に覚悟を決めていました。
幸いに、本人の生命力が強かったのか、生命の危機を乗り越えて1カ月で退院出来ました。その頃は、我が子は弱いと思っていました。今では風邪もなかなか引かない丈夫な体です。
                               
3.学校生活

小、中、高と楽しい学校生活を送りました。本人は学校大好き、お友達大好き、勿論わんぱくも大好きです。KAZUが小学4年生、担任からは一人通学の許可はまだ出ていませんでしたが、母はこっそり一人で通わせていました。その時から実は、母は看護学校にかよいだしました。生後の肺炎時に我が子の健康管理は自分で、母がしようと決めていました。その覚悟を実現させるため、進みはじめました。4年間かかって正看護師になり、今フルタイムで夜勤もしています。
                                   
4.仕事をしながら

母は仕事が優先となり、KAZUのこと、わんぱくのこと、ずいぶん抜けたまま、毎日どうにか進んでいます。周りにかなり助けられ、感謝、感謝の一言です。わんぱくの仕事も同様、それでもわんぱくを続けるのは、KAZUの「わんぱく大好き」なため。
                                 
5.今後のこと

今、区内作業所に通いお仕事をしています。KAZUの学年から、就労移行が始まり、あと1年は作業所に通います。実習も今後はじまり、新しい可能性を見つけられるかも。余り心配していません。と言うか、なるようになる、と思ってます。
こんな能天気な母に生まれてきて、申し訳ない。仕事で疲れて帰っても、KAZUの笑顔で癒されています。母の癒しの存在になるとは、生んだ時には想像も出来なかった現実です。

今回、原稿を依頼され改めてわんぱくとの関わりを考えました。
わんぱくの仕事もかなり周りに助けていただいており、父母会にもなかなか出席できませんが、どうにかKAZUのため続けていきたいと思っています。





「新幹線とおじいちゃん」・・・飛び出し名人 (2011.1.30)
                                            長嶋 侯子    

 長嶋佑太、現在24歳。知的障害を伴う自閉症。

<好きなこと>ドライブ、コンビニでの買い物、ビデオ・DVD・CDをツタヤから借りて鑑賞。

<好きな食べ物> ハンバーグ、ラーメン、カレーライス、スパゲティ。

<家庭>3人兄弟の3番目、1番目は姉、2番目の長男とは1才7ヶ月違いの年子で、
次男として新潟県新潟市で生まれた。乳児期は3人の育児で大変だったことを私は覚えている。

<生い立ち>
生後3ヶ月頃、お乳を飲んで満腹のはずなのに、おむつを交換したのにいつまでも泣いてばかりいて朝の洗濯物が干せないことがたびたびあった。また、夕方になると長男も機嫌が悪くなり、重い長男をおんぶしながら、佑太をだっこしてあやしたこともあった。

<発病>
生後6ヶ月頃、名前を呼んでも視線が合わない。
発語は、10ヶ月位から「ママ」、「パパ」など出ていたが1歳過ぎてもなかなか語彙が増えていかない。ことば以外、身体の発達は普通。歩き出したのは1歳くらい。歩き出すと、突っ走ることが多々あり名前を呼んでも振り向かない。動きが激しく予測できない。常にそばに付いていないと何をするかわからない子であった。遊びは車をひっくり返してタイヤをくるくる回すなど、変な遊びだった。また、道路の側溝に石を落とすことを何回も繰り返していた。2歳位から思い通りにならないと、床に頭を打つことあり。ある時は、お岩さんの様に瞼が青紫に腫れたことがあり、おじいちゃん・おばあちゃんを驚かせた。佑太が2歳になった頃、長岡市でおじいちゃんとおばあちゃんといっしょに住むことになった。この頃、おじいちゃんは仕事をしながらも合間を見ては車で色々な所へ連れて行ってくれた。公園だったり図書館だったり、佑太にとっておじいちゃんは何でもしてくれる「やさしい人」として長岡での思い出が色濃く残っている。

<療育生活>
新潟市の小児精神科を初めて受診したのは、2歳6ヶ月。問診や行動観察から自閉症と診断された。その後、3歳2ヶ月から新潟にある療育センターに週に1度通所。2年目からは1ヶ月に1度の療育になってしまった。保育園へは私といっしょに通園していたが、療育に対してもの足りなさを感じていた。色々調べた結果、東大の小児精神科でデイケアを週2回実施していることを知り、新幹線で週2回のデイケアは、ちょっと大変か、とも思ったがやるだけの価値はあると思った。こうして佑太と二人で長岡から週2回東大デイケアに通うことになった。しかし、新幹線で週2回通うのは金額も労力も大変だった。家族との相談の結果、将来的に教育のことを考えると東京に住むことがいいと思い、5歳7ヶ月の時に東京の葛飾区に移り住んだ。孟母三遷ということわざがあるが、多かれ少なかれ障害者の両親は、子どもにとって一番ふさわしい教育を受けさせたいと思う気持ちは当たり前のことである。

<飛び出し>
 佑太と言えば、「飛び出し」で思いつく方が多いと思う。
小学1年生からここ2年位前まで何回、行方不明になったことか・・・。佑太の飛び出しの目的は、新幹線に乗り長岡のおじいちゃんに会いに行くこと。田園都市線の池尻大橋から東京駅までの駅名や、東京駅から長岡までの上越線の駅名など全部覚えている。しかし、1度たりとも長岡に到達したことはない。途中で車内販売のコーラを勝手に取って、不信に思われ保護される。最初いなくなった時は、目の前が真っ暗になりどうしていいのかわからなかった。何回か飛び出しがあり、だんだん慣れてきたが。行方不明になった時は、まず地元の警察に連絡。都内全域になった場合は、110番通報。当時、新幹線に乗った場合は鉄道警察隊に連絡しなければならなかった。8時間くらい連絡がなかった時もあった。その間は不安は強いが、じっと連絡を待つしかない。そして、その連絡が高崎だったり、宇都宮・越後湯沢・静岡・綾瀬だったりした。そして、主人か私かが迎えに行った。最近は、ようやく飛び出しは落ち着いている。

<わんぱくとの関わり>
 佑太が小1の時に、宮本さんからわんぱくクラブを知り小1の6月から入った。
パニックあり、飛び出しありの職員泣かせの佑太だったが、毎日の積み重ねで仲間意識も芽生え班長もできるようになつた。コンサートでは、いつも最後まで見ることができず先に帰っていた。小5か小6くらいにようやく最後まで見られる様になった。色々なイベントや外出など経験することで、何かに興味を持ったり楽しむことでパニックや飛び出しは少なくなっていったと思う。ひかりに入り、参加回数は減っているが仲間意識はどんどん強くなり、メンバーの名前もよく出る。成人になっても、わずかながらも豊かに成長していることを感じる。

<おじいちゃんのその後>
 おばあちゃんが交通事故で急死してからは、おじいちゃんは長岡でひとり暮らしをしていた。2か月に一度佑太といっしょに長岡に行っていた。しかし、おじいちゃんの認知症の症状が強くなり独居生活は、難しくなった。3年前、私達といっしょに東京・世田谷に住むようになった。佑太は、毎日おじいちゃんといっしょに住むことに対して、喜んでいた。しかし、おじいちゃんは食事の時間が遅い、と言っては、イスをガタガタ動かし怒り出す姿を見て佑太は、唖然としていた。
その後、おじいちゃんは長岡の入所施設へ入所。2年後に脳梗塞になり病院に入院。胃ろうも造り、落ち着くと、病院からは退院を迫られ、入所施設からは断られ、行き場がなくなったため、主人は自分の勤務していた世田谷の病院に移送した。
その後、佑太は週に3回くらいおじいちゃんに面会に行っていた。
2年前におじいちゃんは、肺炎からくる敗血症で亡くなった。
よく面会に来てくれた佑太に対し、おじいちゃんは喜んでいたと思う。

<今後の課題>
 月〜金曜までは生活実習所に通所してくれる様になったが、週末の過ごし方はパターン化している。週末・祝日の過ごし方は、朝5時30分くらいから起きて、お風呂に入り外出の準備態勢になっている。朝食が終わるか終らないうちに、「お父さん、着替える!」と催促する。そして、朝早くから、一日中プールやツタヤや買い物やドライブなど出回っている。これが毎週となるとお父さんもやり切れない。生活支援ホームのショートステイや入所施設のミドルステイも利用している。しかし、最近は予約が入りにくく、希望者が多いことが伺える。住みなれた地域の中で、生活して行く上ではショートステイの充実が必須と思っている。
わんぱくでも、なるべく早くショートステイの事業が立ち上げられる様、皆と協力しながら進めて行きたいと強く思う。


 
 和亮がくれた大切な宝物  (2011.1.16)                      
                                     徳永 登美江     

 結婚2ヶ月後、主人とスキー旅行。それが、お腹の中に居た和亮(かずあき)の人生を左右したのかもしれません。

 「おぎゃーっ!!おぎゃーっ!!」

 今から34年前の8月12日、東京のとある病院の一角で、赤ちゃんが元気な産声をあげていた。早産や流産になるかもしれないと言われていた我が子が無事産まれて来てくれて、「ほっ・・・産まれて来てくれて良かった」と心の中で呟く。でも、同時に心の中で「えっ!?」。産まれた我が子を部屋から連れて出して行く看護士の横で、不安がっていた私に一言夫が「手足バタバタしてて、元気だよ」と。それが、痙攣だと知らず・・・。

 入院している1週間、一度も我が子に会えず、とうとう迎えた私の退院日。夫に「(和亮の)具合が悪いらしいから、まだ入院しなきゃいけないらしい」と、またも会えず。

 和亮が産まれて2週間が経ち、初めての対面日。ガラスケースの中に居た我が子を見て、蒼白で鼻筋が通った外人の様に整っていた顔は本来の赤ちゃんとかけ離れていて、2週間も会えなかったという事に不思議を隠せなかった。そこで初めて主人に「痙攣を止める為の注射を打ったから、短足になるか歩けなくなるかもしれない」と告げられたが、痙攣の恐ろしさを知らなかった私は、安易に考えていた。

 そんな中、私の知らない所で、夫側の義母がお寺に出向き、お祓いと姓名判断を頼み、「健康で難が無い様、幸せになってもらう」様に「和亮」と命名。そんな義母に感謝と同時に「これで、和亮もスクスク育ち、幸せになるのかなぁ」という気持ちでいっぱいになった。

 生後6ヶ月、手術を終え、退院。目の色が正常ではなく、不安は消えなかったが、せっかく授かった命なので、頑張って育てようと心に誓った。

 2歳まで歩けなかった和亮は、療育園の中の保育施設に3歳まで親子共々通いながら訓練を受け続けた。和亮は卒園直前の冬の旅行中に初めて歩き出す!ロボットの様に膝を曲げず、足は180度位開いたがに股歩き。それでも、「わぁーーーっ!歩けた!!!」と心の中でガッツポーズをしながらも、「和ちゃーーん、こっちおいで!!和ちゃーーん!!」と手を大きく開いて、満面の笑みをしていた和亮を呼びながらも、「パパ、見てー!!和ちゃん、歩いてるよ!!!」と。

 小学3年生になり、同級生全員が乗れた自転車に和亮だけが乗れず、私は「これくそっ!」と腹を立てる。2番目の子を身ごもりながらも、「絶対乗せる!」と決意。毎日1時間、親子の自転車特訓開始し始めてから6ヶ月、私が自転車から手を離して、フラフラとしながらも、確実に前に進んで行く和亮に感激。・・・が、それも続かず、乗れる様になってからというものの、毎週迷子!中野区に住んでいた当時、四谷や六本木、池袋と、一人で旅をしていく和亮だったが、そんなある時、世田谷区に住んでいた和亮の祖母の家に遊びに来ていた叔父から電話。「和君がこっち来てるけど、あんた達、こっち来るの?」。毎週、祖父母が車で迎えに来て、世田谷の家まで行く道を、和亮は外を眺めて、道を覚えていたのだろう。とても心配したと同時に、和亮にも、冒険心や解放感が有り、自由に羽ばたけた事に対して、とても嬉しく感じた。

 私や他の人の願い通り、和亮がスクスク育ってくれる事に対して、とても嬉しい日々が続いていたが、その中でも、やはり辛い事も沢山経験をした。ある医師には、「脳が無いね」と言われた友達も居たり、通りがかりの人には、「あいつバカじゃねーの?」と言われる事も多々。3番目の息子を身ごもりながらも、小学6年になった和亮を学校の歩行訓練の為、高尾山に一緒に登った時は、ぎこちない歩き方をしていた和亮を手で引いて、3歳になった娘を抱っこしながらと、大変な思いをしていたのにも関わらず、夫は「仕事が忙しいから」と、下の息子が産まれてからも、4人で行動していた私はどこかで孤独感を感じていた。

 そんな時、世田谷に居る和亮の祖父母の家に引っ越し、中学・高校と、世田谷にある養護学校に通う様になった。中野に住んでいた時と同じ、私自身が子育てと訓練でいっぱいいっぱいになっていたが、学校の行事に参加する様になったり、「放課後、家で親と過ごすよりは、仲間と一緒に時間を過ごすのも良いんじゃないの?」と勧められて入れた、わんぱくクラブの運営活動に参加したりする様になり、和亮も友達が増えたと同時に、その子の親と一緒に食事に行ったりする、私にとっても「仲間」が出来た。区からの支援ではなく、親が設立したわんぱくクラブである為、夜中の2時までミーティングをしたり等、和亮だけでは無く、仕事で忙しい夫と小さい娘と息子がいた私は、正直大変!高校卒業し、埼玉の授産施設に通う様になったが、週末の度に送り迎えすると、片道約2時間で、帰って来るとクタクタ。

 それでも、今思う事。
それは、「宝物」に巡り会えた事。

 私はあまり覚えていなかったのだが、「ママは、あんた達の為に生きてるんじゃないの、和亮が居るから死ねないの」と娘に言ったらしい。でも、そんな娘も、もう25歳。将来を考える様になった娘は、「大丈夫、ママが死んだら、和亮は引き取るから!結婚しても、一緒に住める相手を見つけるから!」と。何だかんだ言う下の息子も、22歳になり、電車で片道3時間の授産施設まで送ってくれた事もある。

 始めは、「何で私の所に障害者を持った子が・・・」と思っていたり、悩んだりした事もあったが、今では、そんな事も思わず、「障害者」に対して無知だった私の所に和亮が来てくれて、私を成長させてくれたのだと思う。そんな姿を見て育った下の2人も思いやりのある子に育ち、和亮が産まれてきてくれた事で、とても素敵な子ども達に巡り会えた事に感謝をしている。

有難う、和ちゃん!!


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