子供の書いたtとんかつの絵   

おしゃべり広場(2005年4月)       ●過去のページ一覧へ



 障害児のいる生活で起こるあんなこと、こんなこと、落ち込んだこと、嬉しかったこと、腹がたったこと、それ以外にも、おすすめの場所、感動した本、ここは、何でもありのおしゃべり広場です。今回は「きらきら星」さんが統合教育について、おしゃべりを寄せて下さいました。で、RYOもちょっと統合教育について書いてみました。RYOは、大阪から東京に引っ越したのですが、教育が地域によってこんなに違うなんて実は知りませんでした。みなさんは、いかがですか?

☆私の感じた統合教育(2005.04 きらきら星)
☆統合教育について(1)−寝屋川の統合教育−(2005.04 RYO)
☆統合教育について(2)−親にとって−(2005.04 RYO)
☆統合教育について(3)−東京の学校を見学して−(2005.04 RYO)
☆心が弱くなるとき(2005.03 RYO)
☆笑顔がひろがる(2005.02 RYO)
☆年賀状の話(2005.02 RYO)

私の感じた統合教育

 今、障害ある子を巡る世の中の潮流は、統合教育に向かっているのでしょうか? ノーマライゼーションと声高に叫ばれていますが、政府、そして自治体は具体的に何を実現しようとしているのでしょうか?
…と大上段に構えるのはやめにして、わが子についてのエピソードをちょっとお話してみましょう。

 もう15年も前のこと、当時7歳だった自閉傾向のある知的障害児の息子を伴って駐在先の米国から帰国し、学校を決めるべく教育相談を受けたところ「養護学校が相当」との結論が下されました。それが息子にとって一番相応しいことなら、と思って躊躇なく養護に入れましたが、ここでの先生方の熱心な取組みのおかげで、息子は生活面も社会面もかなり成長しました。

 4年生に進級するとき、養護の先生の勧めで再び教育相談を受け、今度は「心障学級が相当」とのことで、地域の小学校に編入することになりました。そこで、最初に息子を連れてその小学校に挨拶に行った時のことは、今でも忘れられません。  息子と一緒に学校の門を入ると、ちょうど休み時間で校庭にも渡り廊下にも子供たちがいっぱい溢れ、とっても賑やかでした。ところが、息子はその子供たちを目にした途端、身を硬くして私の体の陰に隠れようとするではありませんか。  養護学校という隔離された、いわば温室で育ったような息子にとって、私達にとってはありふれた光景であるはずの小学校がとんでもなく異様なものに映ったのでしょうね。その後、息子は少しずつ新しい環境にも馴染んでいきましたが、最初に示した息子の反応は私にはショックでした。

 といっても、私は決して個別教育を否定するつもりはありませんし、統合教育を手放しで礼賛する気もありません。  両方を経験した者として、確信を持って言います。 「個別教育には個別教育の、統合教育には統合教育の良さもあれば欠点もあります。要は、その時々の子供の状態に合わせ、望ましいと思われる教育を受けさせる自由と選択肢のあることが大切なのです」と。


統合教育について−寝屋川の統合教育−

 長男が中1を終えるまで、大阪・寝屋川市で暮らしていた。寝屋川市は統合教育を実施している。小学校に入るとき、選択肢は3つある。1つめは、校区の小学校の障害児学級にいくこと、2つめは、集中校と呼ばれる小学校の少し規模の大きな障害児学級にいくこと、そして3つめは養護学校にいくこと、普通学級もいれると選択肢は4つと言えるかも知れない。寝屋川では、ほとんどの小学校に障害児学級は存在したし、たまたま障害児学級のない小学校区でも、希望すれば新しく設置することができた。学校を選ぶ基準はさまざまだ。「弟が障害児であるってことは、お兄ちゃんにとって避けられないものだから、だから兄弟同じ小学校に行かせたい」と校区の小学校の障害児学級を選ぶ人もいれば、「小学校にいる間くらい、兄弟の障害のことは忘れて過ごさせたい。」と集中校を選ぶ人もいた。集中校を選んでも、送迎バスがあるので、通学の負担はそう重くはない。

 長男の入学した校区の小学校は、肢体不自由児のための集中校でもあった。長男と同学年には、重度重複の脳性まひの児童もいた。障害児学級の児童は同時に普通学級にも在籍する。小学校1年のころ、長男は、算数・国語は障害児学級で、生活、音楽、体育、図工等は普通学級で受けていた。普通学級で受けるときは、入り込み授業で、障害児学級の先生が一緒に教室に行き、サポートしてくれる。給食は普通学級で食べる日と障害児学級で食べる日が半々だった。どの程度普通学級に参加するかは、児童によって色々だ。重度脳性まひの児童は、普通学級に戻る時間は少なかった。週に3時間くらいの授業と給食1日だったように思う。それでも休み時間には普通学級の友達が障害児学級まで遊びにきたり、授業の時には迎えにくるような関係ができる。運動会では、低学年の時は先生が車椅子を押すが、高学年になると児童が車椅子を押して一緒に行進する。また、学習障害の児童が、算数だけを障害児学級で受ける、というようなことも可能だった。

 すべてを統合教育に、とか、障害児も普通学級に、とか主張する気は毛頭ない。大事なのは選択できることであり、何を選択するかによらず、十分なサポートが得られることだ。それでも、保育所や幼稚園、小学校低学年の間、すなわち知識学習より生活学習が中心である間は、統合教育を取り入れることが望ましいと思う。一緒に生活することにより、障害児は健常児に慣れ、健常児は障害児に慣れる。お互いを知ることができる。色々な障害があること、障害児にできること、できないことを知り、障害児が同じ空間にいることをあたりまえと感じるようになる。
 インクルージョン(ノーマライゼーションでも)は、知識として理解するものではなく、体得するものだと思う。  (2005.04 RYO)


統合教育について(2)−親にとって−

 統合教育で。健常児と障害児がお互いに慣れる、と書いたが、それは保護者にもあてはまる。ずっと障害児の中だけで生活するのは、親にとってもある意味温室だと言える。障害児の親同士、という温室だ。※
 統合教育といっても、最初から子供たちが天使のごとく障害児を受け入れるかというと、そんなことは決してない。笑われたり、仲間はずれにされたり、そういうことはよくあることだ。が、子供のそんな姿を見るのは本当につらい。健常児に比べてどんなに出来ないことがたくさんあるか、思い知らされることも多々ある。最後まで障害児に理解を示さない子供や保護者がいる場合もある。でもそんな色々な出来事を積み重ねて、着実にお互いに慣れていく。
 障害児を受け入れて欲しい、障害のことを理解して欲しい、と私たち障害児の親は願っている。だが、同時に、私たちは、健常児のことを理解しようと努めなければならないと思う。ノーマライゼーションは一方通行ではないはずだ。統合教育は、健常児・障害児双方の親にとっても、お互いの理解を深めるいい機会になるはずだ。
 ※この温室が不要だと思っているわけではないので、そこのところは誤解しないでね。 (2005.04 RYO)


統合教育について(3)−東京の学校を見学して−

 東京への引越し、という話が出たとき、私たちはまず、知的障害児の長男の環境がどうなるかを考えて、住居候補地に近い中学の障害児学級を見学した(大阪では、基本的に居住地校区の学校が基本だったので、世田谷のように、障害児学級の場合どの学校でも選択できる、ということは全く知らなかった)。また、大阪では、可能な授業は入り込み統合教育だったので、「通常クラスに入ることはありません。クラブ活動も参加できません。」という説明に、かなり驚いた(これは、学校によって違う、ということも後で知った)。これでは、中学校に障害児学級を併設する意味がない。

 「障害児でも音楽くらいなら(健常児と)一緒にできると思うのですが、そのような活動はないのですか。」と質問し、先生の回答を聞いてさらに驚いた。「障害児は、音程が外れますから」と先生は答えたのだ。障害児学級の先生が、そう答えたのである。私たちは、失望というより、むしろ怒りを感じた。「健常児だって音程の外れる子はいるはず、狂いなく歌えるということが、そんなに重要なことですか? 教育ってそんなものではないでしょう?!」 喉まででかかった言葉を飲み込んで、私たちは「そうですか」と答え、学校を後にした。「この学校に来る必要はない。」そう決心して・・・。 (2005.04 RYO)


心が弱くなるとき

 前にも書いたが、昨年養護学校を卒業した長男は、お店の洗い場で働いている。彼の進路をどうするか、在学中、私たちは本当に悩んだ。彼の能力は、そう高くはない。一般就労はかなり難しいと思われた。しかし彼は、働きたいという思いを強く持っていた。スーツを着て革靴をはいて鞄を持って仕事にいく。それが彼が思い描いていた卒業後の姿だ。

 よく言われる言葉に「(作業所と一般就労と)どちらが幸せかわかりませんから。」とい うのがある。作業所にはいれば、いただける工賃はわずかだが、毎日・お茶の時間もあるし、作業が出来ないからといって叱られることもない。クラブ活動など余暇やレクリエーションも充実している。それに比べて一般就労はやはり厳しい。理解ある職場であっても、失敗が続けば叱られるし、仕事中は真剣そのものだ。余暇活動に対するサポートはないし、リストラされることもある。作業所の手厚さに比べて一般就労のリスクはあまりにも大きすぎる。「どちらが幸せかわからない」という言葉には、「なぜ、わざわざ一般就労なんてそんな無理をさせるの」という意味が含まれている。

 うまく洗うコツがつかめず、洗い直しや失敗を繰り返し、落ち込んだ長男の話を聞くと、こちらの胸が痛い。たまたま、その時期に職場訪問してくださったハローワークの方と電話で話し、つい「就労は無理だったのかも・・」と言ってしまった私に、ハローワークの人は、次のように答えた。「何を言ってるんですか、お母さん。彼は、遅刻もせずに毎日仕事に行ってるし、挨拶も元気にしています。一番大事なことです。大丈夫です。彼が就労しないなんて、もったいないです。」この言葉は、私にはとても嬉しかった。今まで、「どちらが幸せかわからない」という言葉は何度も聞いたが、こんなふうに言ってくれた人はいなかった。

 私は、収集したたくさんの情報や、先輩たちの経験は、助言に過ぎないことを知っている。最終的に決めるのは、自分たちであり、ひとたび決定したことに対しては、自分たちで責任を持たなければならないことも知っている。だが、「それで間違ってないよ」「きっと大丈夫」と誰かに言ってもらいたい、そんな風に思う時が確かにある。  (2005.03 RYO)


笑顔がひろがる

 何気なくチャンネルを回すと「ようこそ先輩」をやっていた。この番組は、わりと好きでよく見ていたが、時間帯が変わってからすっかり見る機会が減っていた。その日は、写真家の長倉洋海さんだった。以前、こども劇場の企画で長倉さんの「スライド&トーク」に参加したことがある。戦争や貧困や色々な境遇の世界の子供たちの写真を見ながら、話を聞いた。困難な環境にありながら、子供たちは生命力にあふれ、生き生きとしていた。中には、もう亡くなってしまった子供もいた。

 「ようこそ先輩」では、小学生の子供たちが、教室を飛び出して、町の人たちの笑顔の写真をとることが課題だった。知らない人に「笑顔の写真を撮らせて下さい」とお願いするのだ。最初はドキドキの子供たちも、だんだん慣れてくる。撮られる人の方も何となく嬉しそうだ。たくさんの笑顔の写真が集まった。それらの写真と長倉さんが撮った写真とを、1枚の大きなパネルにパッチワークのようにレイアウトしていく。たくさんの笑顔がつまった大きなパネル。「これを見てどう思う?」長倉さんが子供達に話しかける。ちょっと考えて子供が答える。「笑顔はおんなじだ。」長倉さんが受ける。「そう、笑顔は同じ。子供でもお年寄りでも、国が違っても、笑顔はみな同じ。まず、自分が笑顔になり、自分のまわりの人を笑顔にさせ、次にその人が、その周りの人を笑顔にする。こんなふうに笑顔が広がって、世界中の人が笑顔になればいい。そんな小さなことが、世界の幸福につながっていく。」と締めくくった。本当にそうだと思った。人種や年齢や障害や、そんなことに関係なく、笑顔で暮らせるように、そのためにまず自分が笑顔になること。やっぱり長倉さんはすばらしい。  (2005.02 RYO) 

年賀状の話

 毎年、年賀状には、ちょっと凝っている。1年間を通じて、機会あるごとに家族全員の写真を撮り、その年の年賀状にする1枚を決める。飼い犬のアップや他の写真を組み合わせて年賀状のデザインをし、印刷を発注する。それとは別に家族の近況報告を書いたラベルを作り、年賀状の宛名面の下半分に貼る。宛名は印刷したものを使うが、最後に宛名を見ながら、直筆でその人への一言を添える。1年に1度の挨拶である、会う機会のなかなか持てない古い友人も多い。大切なつながりだ。

 いただく年賀状の中には、印刷のサンプルのような通り一遍のデザインに、パソコンで宛名を印刷したものもある。一昔前は、印刷だけの年賀状でも宛名は手書きで、少なくとも差出人は宛名を書くときは、私のことを思って書いてくれたのだろうと思っていたが、宛名までパソコンだと、書いた本人が誰に年賀状を出したかを意識しないまま、パソコンが年賀状を製造して機械的に送っているような気がしてひどく寂しい。
 もちろん、その逆で思わず長い返事を書きたくなるような年賀状もある。今年、長男に届いた年賀状もそのひとつだ。長男は、昨年4月に卒業した養護学校の寄宿舎に年賀状を書いた。卒後の報告を私が書き、長男が一言を添えた。その年賀状に対して、寄宿舎の先生は、寄せ書きのように、一人一人のメッセージを書いて返信して下さったのだ。機会あるごとに読み返す大事な一枚になりそうだ。  (2005.02 RYO)