子供の書いたとんかつの絵   

おしゃべり広場 (2006年5月)     ●過去のページ一覧へ



 障害児のいる生活で起こるあんなこと、こんなこと、落ち込んだこと、嬉しかったこと、腹がたったこと、それ以外にも、おすすめの場所、感動した本、ここは、何でもありのおしゃべり広場です。
 4月になって、さあ更新と思っているうちに、あっという間に5月になってしまいました。今回は、わんぱくプレスから2件、記事を転載しました。

☆実習を終えて(わんぱくプレス2月号より転載 ひとりの障害児の母)
☆わんぱくのコンサートって・・・おふくろの味?癒しの湯?(わんぱくプレス3月号より転載 もこりん)
☆障害を理解すること(1)(2006.03 RYO)
☆ルール違反(1)(2006.04 RYO)


実習を終えて

 自分から“保護者”の肩書きが一生取れないという現実を悟って、何年たったのか。 早いもので、障害児である娘は高等部3年生、卒業後の進路先を決定する時期になった。 学校生活の9年間は確かに長いが、実際は卒業後の年月の方がもっと長い。その長い年月を、我が子が居心地よく、楽しく生活できる場所はどこだろうか。
 世田谷区では、更生施設(福祉園、実習所等)もしくは授産施設(作業所等)を希望する場合、高等部3年生の時に3ヶ所実習しなければならない。いろいろな先輩のお母さん方の意見も参考にし、3ヶ所実習希望を提出、6月から実習が始まった。 そして12月、やっと4ヶ所目の実習を無事終えて、後は結果を待つだけとなった。 4ヶ所目?3ヶ所の間違いでは?と思われるかもしれない。実は途中、実習希望先を1ヶ所追加したのだ。

 今まで数えられない位、施設見学したはずだった。だが、見学はしょせん見学、実際に我が子が実習してみて、初めて見えてくる部分がある。あと親同士の評判というものも結構耳に入ってくるのだが、これもまた、自分の子どもにあてはめると、実際は違うぞということもある。子どもの障害の特性はいろいろなのだから。
 運営を委託されている法人の考え方、職員体制、それに作業内容もそれぞれ異なる。 利用者同士の相性、それからくる施設の雰囲気もまったく違う。学校とは違い、利用者が大幅に変わることは考えられないのだから。 施設選択にあたり、考慮しなければならない点はけっこう多い。

 だが、今回想定していなかった点が、施設選択にあたり大きなウェートを占めた。 それは“家庭の事情”である。ここでは触れることは差し控えるが、いくら我が子にあっている施設でも、実際に通えなければ意味がない。たとえ送迎バスがあったにしても。 結局、我が家の現在の諸事情を考慮して、よりましであろう選択をせざるを得なかった。(私個人的には納得できるのだが。)

 高校進学を控えている弟の受験に備えて、同時期に同じよう進学先選択をした。 姉に比べてなんと選択肢が多いことか。高校の案内書を初めて手に取った時、あまりの分厚さにため息が出た。障害児である上の子の方はあまりにも選択肢のなさにあきれたが、弟の方は反対に選択肢の多さに途方にくれた。
 ただ上の子にしても、選択の余地がまだあるだけましなのかもしれない。 どんどん下の学年の障害児が成長し、進路を決定する時、障害者施策はどうなっていることだろう。4月から障害者自立支援法が施行される。これから大きな変革があるのだと思うと、とりあえず我が子の進路先が決定しそうな安堵感よりも、障害児・者たちの見えない将来に不安を感じた。    (わんぱくプレス2月号より転載 ひとりの障害児の母より)


わんぱくのコンサートって・・・おふくろの味?癒しの湯?

 わんぱくのコンサートも今回で13回目。私は2回目からの参加ですが、今まで当日のお手伝いに追われ、じっくり聞いたことなんてありませんでした。今回、平日で主人が参加できず、午前中だけお手伝いして、コンサートは初めて息子と一緒に最初から終わりまで聞く事ができました。  

        やっぱり、生ライブは最高!!

 太田裕美さんの意外に(大変失礼な言い方ですが)はりのある歌声に引き込まれ、昔懐かしい曲に口ずさみ、母の優しさに満ち溢れたトークと共に充分に堪能しました。来てくれた友達も皆、「よかったよ!」と、口々に言ってくれて、満足できるコンサートで本当に良かった!と思っています。
 人は皆、障害を持っている、いないにかかわらず、日々、悩みを抱えて生活しています。大小は様々かもしれませんが、悲しんだり、苦しんだり、辛かったり・・・毎日もがきながら生きています。でも、一つでも楽しい事、笑い合える事があれば、前に進むことができます。わんぱくのコンサートはデジタルではなく、アナログ的な手作りの暖かさがあります。ほんのりとした優しさに溢れ、ホッと一息できる空間と時間に満たされ、心が癒される場なのです。

 コンサートの最後にぞろぞろ、だらだらと舞台に上がるわんぱくの子供と親達。歌っている子なんてほとんどいないけど、皆楽しそうにして輝いています。舞台を埋め尽くすほどの大人数が一つになっている姿をまのあたりに見て、自分は一人じゃないんだなと思える安心感。会場全体で歌う一体感。そして、なんか、明日からもがんばってみようかなと元気になる。だから、皆「よかったね!」と笑顔で帰っていきます。
 そう、わんぱくのコンサートは日常からの逃避ではなくて、明日への活力につながる場なのです。わんぱくのコンサートをやる意義がそこにあるんだと、今回つくづく実感しました。だから、また、リピートして来てくれる。本当にありがたい、素晴らしい事だと思います。そして、コンサートを支えてくれた多くの方々に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。
  皆さん、是非、次回もお会いしましょう!!ねっ!!! (わんぱくプレス3月号より転載 もこりん)


障害を理解すること(1)

 両親外勤の我が家では、最後に家をでるのが障害児の長男、ということがたびたびある。鍵のかけ方などは、結構練習して比較的大丈夫だが、いちばん気になるのは、冬の暖房だ。ガスストーブ等古いこともあって、タイマーがついていない。冬は、親がなるべく暖房をきったのを確認してから出るようにしているが、親の出勤が早い場合、暖房のない部屋に長男を置くのは可哀想なので、「必ず切ってよ!」と声かけして、暖房は長男が切ることになる。帰ってきたら、暖房がついていた、ということも一度や二度ではない。

 ある日のこと、その日は、私が長男より10分ほど先に出ただけだったので、ストーブも電気コタツも切ったのを私が確認した。それなのに、次男が試験ではやく帰ってきたら、こたつがついていたという。「なんで、わざわざ切ってあったコタツを、出る前につけるの!」と長男にいったあと、「ガスストーブは、ちゃんと切れるんだけど、コタツのほうは失敗が多いなあ」と独り言のように言うと、次男が答えた。「ガスストーブはランプがつくから、切ったか切ってへんかわかるやろ。こたつは、入/切 と書いてあるだけやから、兄ちゃんにはわからへんねんやんか。」 確かにそのとおりだ。「入」が赤文字になっていたら、彼は色で区別できる。だが、どちらも黒文字で、漢字の読めない彼は判断できなかったのだ。彼の障害はよく知っているはずなのに、何故そのことに気づけなかったのだろう。コタツのスイッチの判断に迷う彼を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。早速、赤と黒のマジックでそれぞれに着色した。

 これは、私にとって少なからずショックな出来事だった。私は、彼の家族である。彼の障害や、得意なことや、苦手なことをよく知っているはずである。それでも、こんなことが起こるのだ。生活を共にしている親でさえ、こうなのだから、殆ど障害児・者に接したことのない、世間一般の人ではどうか? 推して知るべし、である。障害者でも暮らしていける社会を作るために、まず障害について理解してもらうことが必要だ。そのためにも、我々がもっと発信して、理解してもらう機会を作らなければならない、と思う。また、統合教育は大きな力になるだろう。
 ちなみに、色分けされたスイッチは、遠くからでもひとめでわかるので、我々にとっても実は便利だった。これこそユニバーサルデザインだね。(2006.03 RYO)


ルール違反(1)

 桜満開、お花見日和のあたたかな土曜日、家族で公園にいった。公園の売店は、昼食時ということもあって込み合っており、長い列ができていた。列に並んで、さあ次は私の番、という時、列に並ぶことなく、おじいさんがやってきて、「甘酒はありますか」と聞いた。まあ、それはいい。並ぶ前に、お目当ての商品があるかどうかを確認するのは、OKだろう。ところが、そのおじいさんは、店員さんが「ありますよ」と返事をすると、「じゃあ、お願い」と注文したのだ。「はい、○円です。」と店員さんが応じたので、私は思わず抗議した。「どうして、並んでいない人の注文を優先するんですか?」 店員さんは困ったようにおじいさんを見たが、おじいさんは、まったく意に介さず、列など見えない、抗議など聞こえないかのように、「あ、甘酒3つね」と注文を追加した。店員さんは、困ったように私の顔とおじいさんの顔を見比べて、結局おじいさんの注文に対応し、おじいさんは、列などまるで存在しないかのように、甘酒を受け取って去っていった。

 なんというルール違反! だが実はこの手のことは、日本ではちょくちょく起こる。どうして日本はこんなにルール違反に甘いのだろう。少しの期間、アメリカで暮らしていたが、アメリカではこんなことは決して起こらない。「割り込み」はルール違反であり、社会的に容認されることのない行為だ。店員さんも対応したりしないし、まわりからも非難される。でも日本では抗議したほうが、まるで悪者のようだ。

 同じようなことは、他にもある。資格のない車が車椅子マークの駐車場を占有することや、公園のまわりの不法駐車。駐車場に余裕があっても、駐車料金を払わずにすませるために、平気で路上駐車する。こういうこともアメリカでは決して起こらない。アメリカでは、駐車違反は必ずつかまるからだ。
 反対もある。日本で、対面通行の狭い国道と、その国道から曲がって入る、交通量の殆どない4車線・分離帯ありの広々とした道路の制限時速が、国道と同じ50kmだったりする。そして、わざわざ広いほうの道でスピード違反の取締りをして、全く危険な運転ではないにもかかわらず、速度違反として検挙する。まるで検挙するために、制限速度を決めているようだ。こんなことがあるから、つかまったとしても運が悪かっただけで、ルール違反は悪いことではない、という感覚になってしまう。それが問題だ。

 ルールは、決してやってはいけないことの必要最小限のものだけにして、そのかわり、誰もがルールを守って気持ちよく暮らせるようになればいいのに、と思う。そして、「割り込み禁止」は、間違いなく、誰もが守るべき基本ルールのひとつだ。 (2006.04 RYO)