ここは会員、指導員、ボランティアの皆さん、わんぱくの活動
  を応援して下さる方々、みんなが参加できる「ひろば」です。

   《2010年10月〜12月掲載》





       
    わんぱく三軒茶屋・土曜活動
 から         
 
  今回、スタッフの榎本さんのお宅にお邪魔するという、初めての企画を試みました。
    子ども達は皆楽しみなようで、朝から駆け足で来所してきます。人の家に上がるのはちょっぴり緊張、
      でもすごく楽しみ!そういった感じで、どの子も笑顔が絶えません。
        榎本さんのお母様に、感想を頂いていますので、是非ご一読下さい。

                                              榎本 亘の母

 私は、いつも「わんぱく」でお世話になっております榎本亘の母親でございます。
先日は、はるばる横浜の我が家までいらしてくださり、ありがとうございました。平素は老夫婦だけで、晴れていてもどこか薄暗いような暮らしてをしておりますが、この日ばかりは あの日の太陽のように明るく輝き、眩しいくらいでした。感謝です!

 2つの部屋に分かれれば15人でも何とか座れるだろうと思いつつ、玄関いっぱいに揃えられたスニーカーを見とどけてから、小さな6畳の和室へ。
ビックリです!スタッフの方もお子様方も一緒くたになってニコニコ顔で車座に。それも正座。夫も私も思わず正座。可愛い膝をそろえ、肩や背中を重なり合わせ、顎の下には前の人の頭があったりして。それでいて1人として隠れた顔がありません。

 自己紹介でまたビックリ!スタッフかとばかり思っていたら、その方はお子様。お子様かとばかり思っていたら、その方はスタッフ。(失礼!) 他のスタッフを紹介していられるのかと思ったら、ご自分の紹介だったりして。双子のようなスタッフがいらっしゃるのですねー。        
   
 それにしてもお子様たち、はっきり話して、しっかり聞いて、その上お行儀の良いことといったら。これもまたビックリです。おかげで、自己紹介をしながら、お子様との交わりを大いに楽しませていただきました。

 おやつのときでは、余ったケーキの扱い方がまた傑作でした。スタッフの方は誰にあげれば1番公平かをよくご存知で、もらった子はよいのですが、様々なチャチャがはいり、なかなか食べることができません。もう大笑いでしたよ。

 短い時間でしたが、小さな家で繰り広げられた豊かな場面は、私がこれまで味わったことのない優しい香りと温かいそよ風とを、壁や床や畳に残していってくれました。みなさんが帰られた後、私もみなさんが座った畳や椅子やクッションに座ってみました。とっても温かでした。本当にありがとう!
 スタッフのフォローやご指導に、安心して身をゆだねるお子様の姿が胸に焼き付き、愛がなければこの関係は築かれないと思わされました。

 最後に、我が家の愛犬・三四郎が、みなさんとお別れをして姿が見えなくなっても、ビワの木の下でクーン、クーンと鳴いていました。               
                                             
●ホーム1 ●過去のページ一覧へ


保育の中で大切にしていること  〜
指導員学習会報告から

                                                SERI

 わんぱくクラブ駒沢では、新しいスタッフが入ってきたこともあり、「保育の中で大切にしていること」を確認し合いました。
 保育の場面指導では、「音楽遊びで仲間が引いてしまうくらいノリノリのKくんへの働きかけ」など、駒沢の実践でありそうな状況を想定して、自分ならどう対応するか・・・を話し合いました。下記の感想文にもある通り一人ひとりの感じ方にも違いがあり、新鮮でした。
 わんぱくクラブの実践では、各スタッフが自分で判断して行動することと、他のスタッフと協働することを、それぞれ大切にしています。そのためには、スタッフ間のコミュニケーションが欠かせません。今回の学習会がそれを実現するための機会になれば、と思っています。

●施設別学習会に参加して        
                   
                           MAKKA

 保育後の終礼でも、「こういう状況で、こういう対応をした。」という話はしているのですが、今回の学習会では、「こう思うから、こう考えているから、こういう対応をする。」と、スタッフの思い・考えを聞くことができました。
 1つのシチュエーションでも、スタッフの中で考えや対応が全く違い、「あっ、こんな考え方・対応があるんだ!」と新しい発見がいくつもありました。また、自分の考えや対応を話すことによって、子どもへの接し方や保育に対する考えを振り返ることができました。普段は何も考えてない・・・とまでは言わないですが、これからは1つ1つのシチュエーションに対して、もっと考えて対応しなければと感じました。
 今回の学習会は、とても有意義なものでした。これからは、このような学習会ではもちろん、終礼などでもスタッフ同士積極的に意見を出し合い、より良い保育ができるよう努力したいと思います。

ひろば


子どもと共に歩んできた道 〜 支えの中で向き合いながら
                                           金本 英美     


 淳宏は、とにかくよく泣く赤ちゃんでした。窓の外から聞こえる車のエンジン音に泣き、スーパーで流れる音楽や廃品回収の車のスピーカー音に泣き、歩き始めてからは道順が違うと寝転がって拒否し、根くらべをしたら一時間はかかる。それでも、「大物になるかも!」などと呑気に考えていた私と主人でしたが、淳宏の妹を出産する為に里帰りした折に、知り合いの自閉症のお子さんと様子が似ているような気がすると母から受診を勧められ、2歳過ぎに自閉的傾向があると診断を受けました。

 その後、当時住んでいた江戸川区の療育相談に通いましたが、淳宏の慣れない建物、模様等への拒否反応、ドライヤーの音、掃除機の音、洗濯機の回転音、インターホン等の生活音への恐怖感は次第に顕著になっていきました。始終私におんぶをせがみ、私の背中が唯一安心できる場のようでした。療育相談の先生から安心感を育てる方が良いとアドバイスを受け、日中は出来る限り淳宏の相手をして、仕事帰りの主人に買い物を頼み、淳宏の寝た深夜に翌日の夕飯を作るという生活を1年間送りました。この頃は、主人と私の双方の家族が帰省する度に休ませてくれ、支えてくれました。

 1年が過ぎて、妹の相手も充分にしてあげたい、淳宏にも多くの人の関わりが必要だろう考え始めた頃、愛育養護学校の就学前の子どもを対象にした家庭指導グループを知りました。近所に身内もいず、疲れも溜まり、二人の子どもを育てられるだろうかと限界を感じていた私は、初めて見学に行った際に「皆で育てていきましょう」という先生方の言葉と、ありのままを受け容れて下さる温かさに救われる思いをしました。

 それから家庭指導グループ、幼稚部に通い、やがて就学を考える時期を迎えました。淳宏にどんな教育を与えてあげれば良いか、どう育てていこうかと模索する時に、ともすれば必死になりがちな私に、「互いが家族の誰かの為に犠牲にならないように、家族それぞれが応分の負担になるようにしよう」と主人から言われ、その上で、『障がいがあっても、ただ健常児に近づけるのでなく、気持ちを尊重してあげたい。自ら意志を示せるようになってほしい。おそらく人の助けをいただきながら生きていくのであろうから、可愛がって貰えるような素直な子になるよう愛情を注いでいこう』と指針をたて、愛育の小学部へ通うことに決めました。

 愛育養護学校には送迎バスがありませんでした。最初の頃はタクシーを利用していましたが、淳宏と妹を連れて東西線と日本橋からバスを乗り継いで、広尾まで片道1時間半をかけて通うことにしました。当初は、主人が少し混雑が緩和される時間帯に出社時間をずらせて、毎朝途中まで同行してくれました。二往復は大変なので日中は愛育で過ごし、帰りは子ども二人分の着替えと荷物を持ち、怖くて歩けない淳宏と、「私も!」とねだる妹を替わり交替に負ぶって通う毎日でした。公共の交通機関を利用する通学の時間が、私たちと社会との接点でした。・‥が、私たちに知らん顔をして座っている乗客に『世間は冷たいものだ』という気持ちになったり、しつけもできないのかという冷たい視線が痛く、背中で泣く淳宏を叱り付けたり、私まで泣けてしまうことも度々ありました。
言葉が話せない淳宏は、先の見通しがつきにくい時、混乱が昂じる時には自傷がでてしまいます。この頃の私には淳宏の行動が、甘えや我儘なのか障がいからくるものなのかが良く分からず、気質的なものなのか、慣れの問題なのか、しつけの問題なのか、淳宏の気持ちと社会との兼ね合いをどうすれば良いのか考えあぐねていました。

 しかし日々を重ねる中で、この子の「泣き」や「自傷」は『困っている!』という精一杯の表現なのだ。今の時点で出来ていない事は我儘なのではなくまだ獲得できていないのだ。獲得するのに長い時間を要するのなら、根気強く促し続けよう、と思うようになりました。世間の人に対しても、知らない事なのだから分からないのはあたり前で、両者を知る私が通訳になろう。それが私の役目なのかもしれないと考えるようになり、それからは淳宏に社会的な行動を促した上で「人ごみは苦手だから困っちゃうね」「大きな音で驚いたね」等と彼の気持ちも汲んで代弁するようにしました。いつしか乗客の方々も、温かい声かけや眼差しを向けて下さる方々が増えていきました。
 この後中学・高校と思春期に入り、この時期の応用編の時代に入りますが、子ども達が小さかったこの時期に、愛育に辿り着けさえすれば・・・と踏みこたえて通ったこの期間は、周囲の方々に支えてもらいながらも子どもと向き合うことの大切さを学び、社会の中で生きていけるという自信を得た、大きな経験になりました。

 その後私たちは世田谷に引っ越し、わんぱくに入りました。駒沢のスタッフに可愛がって頂いて、高校卒業後の現在は、通所施設とひかりに通っています。この2月に21歳になりましたが、昨年は20歳を迎える節目で、癲癇発作の予兆から攻撃的になり、私に手が出る時期がありました。この時に、幼児期から向き合って乗り越えてきた経験が支えになって、主人と妹と協力しながら時期が過ぎるのを待ち、淳宏も徐々に壁を越えて落ち着きを取り戻してきました。この間の通所施設やわんぱくのスタッフの支えや、見守ってくれたわんぱくの親御さん方の存在が有難かったです・・・。

 今、淳宏はひかりの仲間と過ごすのがとっても楽しみで、仲間に会うと自然に笑顔がこぼれます。そんな淳宏を見ると、健常な子と同じように、親から自立して仲間と過ごしたい年頃なのだとつくづく感じ、背中で泣いていた淳宏がそんな風に成長してくれたことを嬉しく思います。子どもと共に歩んできた道は、多くの人の温かさに支えられ、親として育てられ(まだまだ途中ですが・・)、家族の絆を深め、ささやかな幸せの大切さに気付かされた道程だったように思います。       

◆◆ 投 稿 一 覧 ◆

みんなの・・・



ページの最初   に戻る
☆Seiya's smile 笑顔が嬉しくて(RYO)
☆わんぱく三軒茶屋・土曜活動から(榎本母)
☆出会い(むらかみよりこ)
☆保育の中で大切にしていること(SERI&MAKKA)
☆支えの中で向き合いながら(金本英美)
☆子どもと共に歩んできた道(里中哲夫)

      
     出 会 い
                                  むらかみ よりこ

 ジュン、26歳、男性。性格は真面目で曲がったことが嫌い。極端な照れ屋。趣味は電車に乗ってあちこちへ出かけることと、TV鑑賞・ビデオ鑑賞・テレビゲームを交互にやること。これが息子の簡単なプロフィールです。
 出産予定日を2週間過ぎて帝王切開で生まれてきたジュンとの出会いをきっかけに、障害のある子どもを育てていく過程で今までに数え切れない貴重な出会いがありました。そのいくつかを書き記してみたいと思います。         
        
「この子は我々の、この“町の子ども”なんですよ、お母さん」

 ジュンが生後9ヶ月の時、夫の転勤で米国ニューヨーク近郊のレオニアという町へ一家で移り住みました。ジュンは運動機能の発達はまあ普通でしたし、言葉が遅いことが多少気にかかってはいましたが、3歳になって現地の幼稚園に行かせるまでは特に障害があるとは思っていませんでした。しかし幼稚園の教師に発達の遅れを指摘され、種々の検査を受けたところ『自閉的傾向のある知的障害(当時の言い方では精神遅滞)』との診断が下りました。この障害“査定”により、ジュンはレオニアの公立小学校の障害児学級に通うことになりました。

 ここで初めてIEP ― 個別教育プランというものの存在を知りました。今でこそ日本でも浸透していますが、1980年代半ばの日本ではまだまだ一般に認知されていなかった施策です。
親と担任教師、精神科医、ソーシャルワーカー等が会合を持ち、一人ひとりの子供についてそれは細かく、どの分野でどのような遅れがあるか、それを改善するにはどのような取組みをすればよいか話し合い、目標を設定して綿密なプログラムを作ります。このプログラムにより、純はクラスでの授業以外に週に2〜3回の作業療法を施してもらいました。
学期の終わりにはまた関係者が集まってプログラムの評価・見直しを行います。特筆すべきは、たとえ転校しても、上の学校に行っても、そのIEPが継続して適用され、一貫した取組みをしてもらえるシステムが確立していたことです。担当の精神科医からその説明を聞いて思わず「そこまでしてもらえるなんて信じられない」とコメントしたところ、冒頭のセリフが返ってきたのです。外国人であり、一時的に駐在しているに過ぎない私達家族にそこまでのケアをしてくれる米国の懐の深さに感激した瞬間でした。

一本の電話

 ジュンの障害が判明し、一体これから彼の為に何をどうしてやればいいのだろうと途方にくれていたある日、知らない日本人女性から電話がかかってきました。
自分も障害児を抱えているがニューヨーク界隈には同じように悩んでいる駐在員家族がたくさんいること、障害の専門家を巻き込んでの日本人自助組織があることを教えてくれ、「私自身も障害児の為のプレイグループを作っているから来ませんか?」と誘ってくれたこの女性こそが、ひかり火曜日グループで一緒の宮本さん(あっちゃんのお母さん)でした。IEPによる申し分のないケアを受けていてもジュンは学校では英語、家庭では日本語という環境に混乱していましたし、親の私も自分の思いを医師や教師に正確に伝えきれない苛立ち、米国の教育制度について英語で説明を受けたり専門用語混じりのレポートを読んだりのストレスを感じていたので、親子共々ほんとに助かりました。

 この障害児の親の自助組織では「ニューヨーク日本人学校にぜひ障害児学級を!」という運動を展開し、文部省の出先機関への陳情や駐在員家族への署名活動なども行いました。

アップル学級 生徒第1号
   
 ジュンが6歳半になった頃、帰国が決まり京都に住むことになりました。ジュンは京都市立の養護学校に通い始めましたが、ここでは彼の基礎の部分を伸ばして頂けたなと感じています。幼児期は気に入らないことがあると床に転がって泣き喚いたり、自分の頭を壁に打ち付けたりしていたジュン。混沌としてうまく折り合いを付けられなかった彼の内的世界が、大げさかも知れませんが、ヘレン・ケラーの物語を地で行くように、学校をはじめとする周りの大人達の働きかけで、少しずつ秩序のあるものに変っていったのを実感できた時期でした。

 そうしてジュンが10歳の時、再び夫にニューヨーク転勤の辞令が下りたのです。もしこの時、駐在先でのジュンの学校の選択肢が現地校の障害児学級しかなかったら、私達はまた途方にくれていたことでしょう。しかし、巡り合わせでしょうか、前回赴任時の私達の要請活動の成果もあってか、丁度この頃ニューヨーク日本人学校に障害児学級が新設され、ジュンをこの学級―アップル学級―の生徒第一号として受け入れてもらえることになったのです。

 生徒はその後5人にまで増えましたが、ここでの取組みもまた素晴らしいものでした。学校の裏庭を畑にして皆で耕し、肥料をやり、野菜を育てる。収穫した野菜を保護者や先生に売ったり調理したりする。それぞれの子どもの状態に応じて母学級の授業に参加する・・すべての活動が社会・生活学習として繋がり合い、総合的に子供の成長を促してくれたように思います。

世田谷へ、わんぱくへ、未来へ

 ジュンが小学部を卒業し、夫に帰国の辞令が出て世田谷に住むと決まった時、東京の学校事情・障害児教育事情を全く知らなかった私は、まず真っ先に宮本さんに国際電話をかけ、ジュンの学校のことを相談しました。その時に「わんぱくクラブ」のことを教えてもらったのです。1年後に入会させていただくことになったのも何かの“縁”なのでしょうね。
  
環境の激変を何度も体験したジュンですが、今から思えば、彼には親の勝手な都合や思い込みで多大なストレスを経験させてしまったのかも知れません。でもそれ以上にジュンもそして私も、これまでいろんな「出会い」をして助けられ、教えられ、慰められ、成長することができたのだと思います。

 ジュンは去年就職し、あれこれ課題を抱えながらも理解ある職場の皆さんや気心の知れた仲間達のお蔭で楽しく仕事を頑張っています。親として心配事は尽きることがありませんが、どうか彼にはこれからも素晴らしい出会いを重ねていってもらいたいと心から願っています。
                                     

         

   子どもと共に歩んできた道
                                               里中 哲夫


 現在32歳の息子は昭和53年1月6日妻の実家のある愛媛県新居浜市で産まれました。義父母にとっては初孫で私たちにとっても最初の子でした。名前はどちらが出てきてもいいように「ゆう」という呼び名は決めてあり、男なら「祐」で女なら「友」の字をあてる予定でした。当時の日記に私は「君は祐だったんだね」と書きました。初産ということもありなかなか出てこず出産の際吸引をしたと聞いております。忙しかった私は出生届提出ぎりぎりに会いに行き、「これが我が子か」と普通に思い急に父親にならされた感覚でした。

 1歳過ぎまでは発達の経過は普通でした。オムツもあまり失敗もなくとれたし、「パパ」「ママ」等の言葉も普通に出てきました。が、この頃から少しずつ不安な兆しも出始めました。まず、言葉の量が増えずに同い年の子に比べて言葉のキャッチボールができないこと。ワーッと走り回る遊びにはついていけるのですが、ルールのある遊びには加われないこと等々です。ただ、私の母や姉から5歳位上の甥っ子がなかなか話せず幼稚園に入ったらぺらぺらお喋りするようになったので、「我が家の男の子の血筋だね」と言われ、時間が解決してくれるのかなと思っていました。

 その幼稚園に入ったのですが、なかなか改善がみられず少しあせりが出始めた頃、園から区の教育相談にいったらどうかとの話がありました。そこで、相談員に「広い心で祐君に接してください」との指導を何度も受けました。私は、「人間の成長とホルモンバランス」という本を読んだ影響で早寝早起きを子どもたちの日課とし、私もどんなに遅く帰ってきても朝6時前には起きだして1時間の散歩をして遊ぶという、私なりの「広い心で接する」日々を送っていましたので「私はこれ以上何をすればいいんだ」というのが実感でした。

 小学校への入学の際ふたつの道が提示されました、ひとつは教育相談サイドから就学猶予を申請したらどうかということと、ある方から「間違いなくは障がいがある。だから、障がい児の親としてこれからは生活していくべきだ。彼には障がい児学級がふさわしいのでは」という忠告でした。なんとなく怖れてはいたのですが、「自分の子には障がいはない」そう思いたい自分がいたのでした。

 結局、わたしは三つ目の選択をして普通学級に入学させました。祐は教科書を必死に丸暗記して授業に臨んでいたようです。が、それもすぐ追いつかなくなってしまっていたようです。今思えば私が「障がい児の親になる」という決断をできなかったばっかりに、彼には酷い選択をしてしまったのかなと思います。

 小学2年生の父親参観に出かけたとき、授業中彼がふらふら教室を歩いているのに誰も注意しない、私が厳しく睨みつけても平然と授業に関係なくふらふらしている。とてもやさしい先生でしたがこれではだめだと思い相談すると、あの「心を広く持って」をなんとかのひとつ覚えのように繰り返す教育相談だということなのでお断りして、一番近い三宿小の障がい児学級を見学に行きました。その時のなにかホッしたような、僕の仲間がここにいたんだというような彼の笑顔を忘れることが出来ません。

 わたしは祐が小学2年生ときから自閉的傾向のある障がい児の親になったのです。
 彼が小学校入学のときから集団生活のなかでコミュニケーション能力をつけられないかと考え、学童クラブに入れてもらいました。弟は共同保育の保育園へ。夫婦でそれぞれ父母会活動を分担することになり、私は比較的楽そうな学童クラブの父母会を選びました。そして、はまってしまいました。

 私の仕事は師匠がいて徒弟制度のようなところがあり、年齢や肩書に関係なく一緒にキャンプやバザーにわいわい取り組んだりする仲間という感覚がうれしかったのです。「わんぱくクラブ」はこの人たちが作ってくれたのです。私は彼らの後ろからついていったらできていたのです。祐が3年生を終える前に高学年保育の学童を立ち上げてくれたのです。

 そうなった時に「6年生までは大丈夫だ」と心の中でホッしたものです。多分私が一番喜んでいたんだと思います。その父母会の中核をなしていた方々のお子さんが中学生になるとみな卒業していき、中学生以上も必要なのは当然私だけになるわけで、そのあたりから少しずつ障がい児を受け入れだして結果「障がい児のための学童クラブ」ということになりました。あとは夢中で現在までやってきました。

 息子は本当に学童クラブに居場所があることで成長をしてくれたようなもので、ケンダマやまりつき手遊びなどの遊びは数年かけてうまくなることで自信をつけ、集団の中で何をやったらよいのか、またいけないのかを学び経験を積み重ねてきました。健康面では一回だけ大きなテンカンの発作を起こしましたが再発はなく、メタボを指摘され昨年からダイエットに自覚的に取り組み一年半で13kg減量しました。就職した現在では「ひかり」の仲間と過ごす日々を宝物のように思い過ごしております。

 
  
Seiya's smile 笑顔が嬉しくて          
                                         RYO    

  定期検診で「まだまだだね」といわれた翌日の夜に陣痛がはじまり、翌々日昼に早々と未熟児で産まれてしまった長男・Seiyaは、1か月検診で小頭症の疑いあり、と指摘されました。すぐに脳波、CT検査を行い、4か月から脳障害による機能訓練専門の病院・ボバス記念病院で訓練をはじめました。当時、私はフルタイムで働いており、機能訓練の先生に「仕事やめた方が・・」と相談したところ、「お母さん、働いているならちょうどいい。ぜひ保育所に入れて下さい。」 それで、私は今も仕事を続けています。

  小頭症とは、何らかの原因で「頭囲が小さい」という症状に与えられた名称で、決まった様態はなく、ダウン症や自閉症と違い、情報も少なく、親の会などもありません。長男の場合、知的発達障害に加えて、指先や唇など細部のコントロールが苦手です。
 
しあわせにできるよ

  医師の説明は、「一生寝たきりなのか、もしかすると何事もなく成長するのか、今はまだわからない」というものでした。多分夫と色々話したと思うのですが、覚えているのは夫の一言、「この子が、一生寝たきりだったとして、その姿を見る僕達にはつらいことがあるかも知れないけど、でもこの子が幸せだと感じるように生活させてやることはできるよ」、その一言で、私達は嘆くことをやめました。Seiyaは、時々変な目の動きをすることがあり気になっていたので、障害がある、と言われたとき、「ああ、やっぱり」という奇妙な納得感がありました。別の病院で、「この目つきをする子はね、2歳くらいからてんかんを起こしてくることが多い、そしたら、退行して笑わなくなるよ」と言われましたが、てんかんを起こすことはありませんでした。 

経験の力

  彼に障害があるとわかった時から、決めていたことがありました。もし彼が何かを感じるのに健常児の10倍かかるとしたら、10倍経験させればいい、ということ。何をしたとか、どこかに行ったとか、わからなくても楽しかったという記憶が残ればそれでいいから、楽しいことをいっぱい経験させてあげよう、ということ。
 
  共同保育所のバザーでは、いつも人形劇やエプロンシアターがあり、彼は大好きでした。家でもやりたいというので、部屋のど真ん中に必要ないのにカーテンレールをつけて、カーテンを幕に、たてたテーブルを舞台にみたてて、人形劇ごっこをして遊びました。外出もたくさんしました。動物園、ざりがにつり、ホタル鑑賞、キャンプ、科学館などなど。最初は動物にえさをあげられなかったけれど、すっかり平気になりました。学童の卒業旅行で行ったスキーでは、運動オンチの両親が両脇を支えてすべる、という涙ぐましい努力の結果、2年がかりで滑れるようになりました。

  もうひとつ、長男は夜寝かしつけるのがとても大変な子だったので、夕食がすむと後片付けもせず、家族で遊んで一斉に寝る生活にしました。家事は全部、朝早く起きてやっていました。夜一緒に寝ることで、「早く寝て〜」と親がいらいらすることもなく、絵本もたくさん読めました。弟が中学に入る迄、我が家では午後10時は深夜でした。 

We miss Seiya's smile  −Seiyaの笑顔がなくなるのがさみしい−

  1996年4月から1997年1月までの9か月間、夫の仕事の都合で米国・オハイオ州シンシナティで暮らし、現地の小学校に通いました。色んな事件もありましたが、この9か月は私達家族にとって長い休暇のような楽しい日々でした。最後の日、クラスでのお別れ会に呼ばれていくと、教室の後ろの白板いっぱいに、 ”We miss Seiya's smile ”と書かれていました。"Seiya”ではなく、"Seiya's smile”だったことが、彼がこのクラスで笑顔ですごしたことを物語っているようで、とても嬉しく思いました。

わんぱくとの出会い

  中学になったら放課後どうしよう、と考えていた頃、当時通っていた大阪の小学校の学童の先生が、「学童研究集会にこんなのがあったよ」と「わんぱくプレス」を下さいました。その後、夫に東京へ転職の話があり、早速わんぱくクラブに電話をかけ、大阪から見学に来ました。彼が中2の時に大阪から引っ越してきて、わんぱくに通い始めました。
   
笑顔が消えた

  彼は、高校卒業後、おすし屋さんの洗い場で仕事していました。お店を改築することになり、しばらく自宅待機だったのですが、もとのお店ではなく、別のお店にいくことになり、色々あって、福祉喫茶に職場を変わりました。本人も洗い場よりは、お客様と接することのできる喫茶の仕事の方が楽しかったようで、この転職はうまくいったと思っていました。ところが職場を変わって2ヶ月たったころ、笑うこともしゃべることもしなくなりました。話しかけるとかろうじて返事をする程度で、夜もあまり眠らなくなり、「ひかり」でその様子に気付いた指導員から、「彼は1人で通勤しているので、ぼうっとしてて赤信号を渡って、交通事故にでもあうんじゃないか、と心配です」と電話がかかってきました。私は、朝、通勤に付き添い、夕方は早く帰り、夜、彼が布団の中で起きている間は、手をつないで一緒に起きていました。休みの日は、彼が行きたいといった場所に家族で出かけました。ひかりでも、職場でも見守っていただき、2週間ほどで、笑顔が戻りはじめました。

  職場の変更で親が感じていたプレッシャーや、環境の変化が、彼にとっても非常につらいものだったんだなあ、と改めて思いました。

笑顔で暮らせるように


  Seiyaは、もうすぐ25歳、福祉喫茶で元気に働いています。ひかりの活動もとても楽しみにしています。ケータイ音楽プレーヤーを聞きながら、お散歩するのがお気に入りです。ひとり暮らしや結婚も気になっています。16歳のときから母と通っているスポーツジムに最近ひとりで行けるようになりました。経験が力になるには、長い時間がかかること、でも確かに力になっていくということを、改めて感じています。 
 思えば、彼からはたくさんの笑顔をもらってきました。将来を考えると不安なことは多々ありますが、これからも彼が笑顔で暮らせるよう、できることに少しづつ、取り組みたいと思っています。最近ちょっと初心を忘れ気味だったので、まず、私達が笑顔で暮らすことも忘れずに(思いのほか、これが難しい・・)。